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「あれ、チヨさんと正明さんじゃないですか。おはようございます。朝からお散歩ですか?」
施設の裏口に向かう途中の花壇に居た二人の傍には、正明さんのフロアで働く20代の女性職員が付き添っていた。
「この人がお散歩に出ようとしてたから、私も一緒にお願いしたの。大丈夫、ちゃんとお部屋の人には言って来たから。ねぇ、アキちゃん?」
アキちゃんと呼ばれた職員が「はい、大丈夫です」と、力のこもった返事をする。
「今日はフロアが忙しそうで、正明さんと一緒に散歩に行ってきてって頼まれたんです」
まだ新人の彼女には誰かがついて教えないと仕事は出来ない。
今日は人手が足りていないか、はたまた何かトラブルが発生したか。
事情があるとはいえ、まだ慣れていない彼女に別のフロアの利用者さんまで任せるのは大変だろう。
「僕は遅番だから出勤時間まで時間があるんだ。チヨさんは僕があとで部屋まで連れて行くよ。ちょっと着替えだけ済ませて来るから、少し待っててくれる?」
そうして急いでロッカールームで着替えを済ませ、再び三人の元へ戻った。
正明さんとチヨさんは、ネットいっぱいに咲く朝顔を見ては「綺麗ねぇ」「俺は花は朝顔が一番好きだ」と嬉しそうに話し、そんな二人を見守る孫のように、アキちゃんも「これぞ夏!って感じですねぇ」と和やかに笑っていた。
「今朝も、そこの門の向こうに黒猫ちゃんが来たのが部屋から見えたのよ。でもアキちゃんに連れてきてもらった頃には居なくなっちゃってたわ。また会えると良いわねぇ」
この前、チヨさんの部屋から見たあの黒猫だろうか。
車いすを押しながら施設の周りを歩く。
鳥のさえずりを聴きながら、時々木陰で休憩する。
木漏れ日を見上げ、チヨさんがゆっくり深呼吸した。
「そうだ。黒猫ちゃんの刺繍、もう少しで完成するからね。人にあげる為に作るのって、気力が出て良いわねぇ」
嬉しそうに頬を撫でながら、自然と表情がやわらぐ。
「鶴も随分増えたんじゃないですか?ノリオ君もきっと喜びますよ」
「あら、ノリオはもうこーんな赤ん坊の時に死んじゃったわよ」
僕は思わず「えっ……あぁ」と返す。
しまった、と後頭部を掻いた。
たまにこうして記憶が戻ったり、また忘れてしまうこともあるのだ。
僕は「そうでしたね。すみません……」と、傍の花壇の淵に腰を下ろした。
か細い手を膝の上で組み、目じりに皺を刻んで「きっとお父さんと向こうで仲良くやってるわ」と、空を仰いで微笑む。
さぁっと吹きぬけたぬるい風に、花壇に咲く満開のペチュニアたちが一斉にふるふると揺れていた。
遅番の仕事を終え、地元の駅に降り立った時には九時をとっくに過ぎていた。
田舎の町の夜は、都会に比べるとずっと人が少なくまばらだ。
普通ならこの時間は、帰宅したサラリーマンがどっと駅から降りてくるのだろう。
タクシーが一台だけ止まっているのを横目に、駅前のロータリーを歩く。
明日は夜勤だ。日中はゆっくり寝ていられるし、少し散歩でもして帰ろう。
僕の足は、まっすぐに喫茶店のある海辺の方向へと向かっていた。
夜の闇に、山の黒いシルエットがぼんやりと浮かびあがる。
薄雲が月光を透かし、ゆったりと夜空を流れていく。
凜と佇む半月が雲間から顔を覗かせたり、また隠れたりするのを眺めながら、祠のある道に入った。
この道の先は丘と海があるだけで住宅が無いので、ひとけが無い。
時おり、風に吹かれて木々がざぁっと蠢いていた。
林の中に建つ祠にスマホのライトを当てると、草陰で何かがカサカサと動く音がした。
「たぬきの親子、か?」
彼らは夜行性と聞いた事があるのであり得る。
この辺りは畑も多いから、餌を探しに移動しているのかもしれない。
人間からしたら丹精込めて育てた農作物を荒らされて堪った物じゃないだろうが、生きるために必死な彼らを害獣として駆除されてしまうのもやはり気の毒に思ってしまう。
こっちに出てくるだろうか。
自分がここに居る事で警戒しているのかも。そう思ってその場を離れようとした時だ。
草陰、それも地面を這うように何かが近付いてくる音が聞こえた気がした。
ずるずると土や砂利を引きずるような音まで聞こえて、思わず身構える。
「うわあああ!」
凄い勢いで後退り、スマホが手から滑り落ちて地面に激突した。
蛇だ。
白い鎌首をもたげて、鋭い瞳で僕をまっすぐに見上げていた。
飛び出して来たらどうしよう。
蛇と真っ直ぐに目が合った状態で、そっと足元の携帯を拾い上げる。
一歩、また一歩と、じりじり距離を開けてく。
草のせいで蛇全体の長さもわからないけれど、身体の太さから見てもかなりの大物だと予想する。
握り締めたスマホに、僕の手のひらの汗がじっとりと広がる。
「ご、ごめん。何かするつもりだったわけじゃないんだ。ただ、あまりにも荒れてるから草むしりとか……昔は神社もあったって聞いて、僕にも何とかできないのかなって気になっちゃって」
蛇相手に何を言ってるんだ。言葉なんて通じるわけないのに、近頃当たり前のように金魚に話しかけているせいで、まるで人間相手かのように語り掛けてしまった。
「あっ……」
突如、蛇が持ち上げていた頭を地面に這わせ、くるりと向きを変えたのだ。
するすると暗闇の林に消える蛇を見送り、安堵の声を漏らしながらその場にへたり込んだ。
まだ体の奥深くが震えている気がする。
なんとか黒猫と月のあるマンションの前までやってきた。
とりあえず草むしりは蛇が冬眠に入ってからにした方が良いだろうか、なんてことを考えながら、心臓の鼓動を静めるように空を見上げた。
みゃあ
猫だ。きっとあの黒猫だ。
青い葉を茂らせるミモザの樹の裏からこちらを覗いていた黒猫が、僕と目が合ってもうひとつ可愛らしい声で鳴いた。
「おいで」
しゃがんで声を掛ける。驚かせないよう、手は出さずに呼びかけてみた。
じっとこちらを見ていた黒猫は、たたたっと軽やかに駆けて来ると、僕のスネに身体を擦りつける。
僕をくりくりの目で見上げて、膝の上に置いた手の甲をぺろりと舐めた。
顎のあたりをうにうにと撫でてやると、目を細めて笑ったような表情を浮かべる。
可愛い。
家で待つ金魚が浮かぶ。
なんだかちょっと浮気でもしているような気になって、ほんの少し罪悪感が芽生えた自分に思わず笑ってしまった。
「お前もあの木が好きなのか?」
僕が言うと、黒猫はとぼけたように小首をかしげる。
「ははっ、わかんないよな。ごめんごめん」
丘の向こうから、波がざん、ざんと砕ける音が聞こえる。
いつになく強い海風が、丘を駆け上ってミモザの樹を大きく揺らした。
驚いた黒猫が僕の足の間に挟まって、甘えるように鳴いていた。
「まぁ、蛇ですか」
「それも白い蛇で、結構大きかったんですよ」
窓に打ち付ける雨が、一際激しくバチバチと音を立てる。
風が文字通り唸りを上げ、荒れ狂った海は波飛沫が立ち上がっている。
愛さんが「それは驚きますねぇ」と、僕の前に夏みかんのタルトを置いた。
前に樋口さんが食べていたものは、アフタヌーンティーセットの一部の小さなものだったが、これはホールを六等分にしたうちのひとつだ。
サイズは十分すぎるくらいある。
「いただきます」
ほんのりと優しい甘さのクリームに、さっぱりとした夏みかん。
しっとりとしたタルト生地が口の中で合わさる。
美味しい。これ、夏の間だけなのが惜しいなぁ。
そんなつやつやとして爽やかな夏みかんとは対照的に、窓枠の向こうはとんでもないくらいの荒天だ。
いつもの色鮮やかな景色とはまるで違い、灰色に塗りつぶされたようだった。
灰色の海と空。その中に、ぼんやりと灯台が見える。
太陽の光を浴びて眩しい白さを放つ灯台も、台風が迫る今日はその景色に埋もれてしまっていた。
こんな天気なので、今日は僕以外のお客さんはいない。
「流石に今日はお休みかと思っていました。来て良かったです」
愛さんはにっこりと微笑み、僕の珈琲を淹れるのに使った道具や豆を後ろの壁付けの棚に仕舞う。
「台風が落ち着くまで、いてくださって大丈夫ですからね」と、水滴が跳ねた水回りを丁寧に拭いていた。
最近、来るたびに巳影さんがいるのでなかなかこんなチャンスは無い。
今日はゆっくり話ができそうだ。
また黒猫に会った話もしたいし、その黒猫がまたうちの施設に来たかもしれないことも言いたい。
それに、他のお客さんがいる時には話せない僕の気持ちも。
大丈夫だ、時間はたっぷりある。
そんな事を考えて、心の内で喜んでいた時だ。
「よぅ」
「あら、巳影さん。こんにちは」
嘘だろ。この天気のなか来たのか。
僕が来た朝早くはまだ落ち着いていたが、今はこれがピークと言わんばかりの風雨だ。
それなのに、よりによって一番来て欲しくない人が来てしまった。
巳影さんは僕の方をちらりと見ただけで、いつものカウンター席に腰を下ろす。
何も言わなくても愛さんはホットミルクを出し、巳影さんは黙ってそれを飲む。
もはや夫婦のようだ。
恋人ではないと言っていたが、僕の中で焦りが生じ始めた。
カラカラに乾いてきた喉に、少し冷めた珈琲を流して潤す。
洗った布巾を絞ってタオルハンガーにかけた愛さんが、椅子に座って一息吐いた。
「愛さん」
絵を描こうとしていたのか、スケッチブックを手に取った愛さんに、意を決して手招きした。
「明後日の夜、少しだけ時間を頂けませんか?」
愛さんが喋ろうとして、僕は慌てて自分の唇に指をあてて合図した。
巳影さんは聞こえているのかいないのか、愛さんが開きっぱなしにしているスケッチブックを見ていた。
「構いませんよ。お店が終わったあとにお待ちしていますね」
愛さんは、僕と同じくらいの小さな声でそう言った。




