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愛さんの店を訪れることができたのは、八月ももうすぐ終わる頃だった。
とはいえ、まだまだ暑い。
昼間はシャンシャンと蝉が鳴き喚くし、陽射しはジリジリと照り付ける。
それでも早朝や朝方には、ヒグラシが鳴くようになっていた。
マンションの前にいた小鳥遊と一緒に、黒猫と月に入ると、巳影さんがカウンター席に座ってミルクを飲んでいた。
まだカップからは湯気が昇っていたので、少し前に来たばかりなのだろう。
愛さんはいつも通り、にこやかに出迎えてくれた。
「滝本君。激務お疲れさま会と言う事で、私がケーキと珈琲を奢ってあげよう」
演技口調で胸を張る小鳥遊は「ほれ、選びなさい」と、メニューを広げた。
「じゃあ、アイス珈琲とフルーツショコラにしようかな」
僕が言うと、傍に立っていた愛さんが伝票に鉛筆を走らせる。
「それと、アフタヌーンティーセットとローズヒップティーもお願いします」
すかさず小鳥遊が注文を付け加えた。
「ローズヒップティー?」
愛さんがキッチンに戻ってから小鳥遊に尋ねる。
「最近はまってるのよ、ハーブティー。お肌にも良いみたいだし」
「へえ、小鳥遊もそういうの気にするんだな」
「当たり前でしょ!私だって女子なんだからっ」
そんな他愛のない話をしていると、愛さんが豪華な三段のケーキスタンドを小鳥遊の前に置く。
すぐにローズヒップティーと、僕のフルーツショコラと珈琲も運ばれてきた。
「凄いな」
ここに通って半年ほどたつが、アフタヌーンティーセットは初めて見た。
一番下の段には、卵やツナ、ポテトサラダのサンドイッチ。
真ん中の段は、ブルーベリージャムや、バター、はちみつが添えたスコーン。
上の段は、様々な種類の小さめのケーキが沢山乗せられている。
「それ全部食べるの?」
「こんなの余裕でしょ」
何言ってるの?とキョトンとした顔を向けた小鳥遊は、早速一番下にあるサンドイッチに手を伸ばし、大きな口でかぶりつく。
これ以上ないような幸せな表情を浮かべ「おいひぃ」と悶えていた。
「小鳥遊はここでいつも何やってるんだ?」
ふわりとショコラの甘さが漂うふかふかのスポンジと、舌の上でさらりと溶ける生クリーム。
グレープフルーツなどの柑橘系の酸味と、イチゴの甘酸っぱさが絶妙に互いを引き立て合うフルーツショコラを堪能する。
小鳥遊はスコーンにバターとはちみつを塗っているところだ。
「こうやってケーキ食べたり、適当に目に留まった本読んだりもするよ。この前はほら、あっちにあるモモ読んでた」
「モモ?」
いつも龍さんがいる席の壁にある本棚に、モモと書かれた本が見えた。
モモ。ミヒャエル・エンデという作家の名作だ。
「本の中に、時間とは生きる事そのものなのですって言葉があってねぇ。なんだかハッとさせられたよ。子供の時にも読んだ事あって懐かしくて手に取っただけなんだけど、大人になって読んだら見方が変わるものなのね。朝から晩まで仕事ばかりでさ。好きな仕事だから勿論楽しいのよ?でも、こうやって喫茶店に来てぼーっと海を眺めたり、美味しい物を噛みしめて、優しい人たちに囲まれて。静かな中で瞬間瞬間を大切にするって必要なんだなぁって思ったの」
小鳥遊は、いつになくしっとりとした口調で言うと、窓の向こうに広がる淡い青色に染まる穏やかな海に目を細める。
「私、お母さんが高校の時に死んじゃったでしょ。あの頃、ちょっと反抗期もあってさ。事故にあう当日の朝も「いってきます」すら言わなかった。お母さんは「いってらっしゃい」って手を振ってたのに。学校が終わって、きっと帰ればいつもみたいにご飯の匂いが家の外まで漏れて、私が無視しても「おかえり」って出迎えてくれると思ってた。それが普通だと思ってた。だけど事故にあったあの日、お母さんは冷たくなって横たわってた。顔にもいっぱい傷があって、血の跡も少しあって、恐怖で顔が強張ったまま硬直してた」
そこまで言って、小鳥遊の声が僅かに震える。
真っ直ぐに海を見つめている彼女の横顔を見ながら話を聞いていた僕は、そっと目を逸らして手元に視線を落とした。
「今日も、明日も、明後日も、ずっと同じ日が続くと思ってたんだ。だけど違った。突然、お母さんがいない私の毎日が無理矢理始まったの。あと数年で、お母さんと過ごした時間より、お母さんがいない世界を生きた時間の方が長くなるんだって思うと、また悲しさがこみ上げてくるのよね。もっと時間を大切にしていれば良かったなって。もう二度とお母さんがいる時間は来ないって思うとさ。もっとちゃんと話しておけば良かった。ちゃんと『いってきます』『ただいま』って言っておけば良かったって」
小鳥遊は上を向いて深呼吸をする。
「これ」
「やだー、何よもう」
僕が差し出したハンカチを、泣き笑いで受け取った小鳥遊は「ありがと」と目頭を抑えた。
「あっ、ごめん。アイメイク付いちゃった。洗って返すよ」
「いまさら気なんて遣うなよ。別に新品でもないし。安物だから」
僕はほんの少し化粧品が付いたハンカチを受けとる。
「やっぱり滝本君は良いやつだね。昔からずっと変わらない」
小鳥遊が柄にもなく落ち着いた口調で言うので、僕は少し照れ臭くなって視線を逸らした。
巳影さんは肘を付いて目を伏せている。
眠っているのだろうか。それとも僕たちの会話を聞いているのだろうか。
愛さんは僕と目が合ってにっこりと微笑んでくれた。
ケーキを食べた小鳥遊がようやく元気を取り戻した頃、樋口さんが現れた。
笑顔で「こんにちは」なんて言っているが、すぐに眉がハの字に垂れる。
浮かない表情のまま、小鳥遊の隣に座ってアイス珈琲を注文した。
「食べる?」
唐突に小鳥遊が自分のケーキを樋口さんの前に差し出す。
「あ、いえ僕は……」
「えー、美味しいのになぁ。勿体ないなぁ。これ最後のひとつだよ?今断ったらもうあげないよ?」
「樋口さん困ってるだろ。やめとけよ」
止めようとした僕を小鳥遊は「良いの良いの」と軽くあしらう。
「ほら、美味しい物食べたら気分変わるかもよ?変わんないかもしんないけど」
悪戯っぽく笑う小鳥遊に、樋口さんは苦笑した。
「そう、ですね。ありがとうございます」
愛さんから新しいフォークを受け取った樋口さんは、太陽みたいな色をした夏みかんのタルトを食べる。
「ひかるさん、良かったら少し散歩に出ませんか?」
お皿にこぼれた夏みかんを食べた樋口さんがフォークを置く。
小鳥遊と樋口さんが出ていくと、店内には僕と巳影さん、愛さんの三人になった。
アイス珈琲のグラスを、陽光を浴びてきらきらと輝く水滴が伝い落ちる。
樋口さんの食べていた夏みかんのタルトが美味しそうだったななんて考えていると、浜辺に二人が歩いてくるのが見えた。
やがて波打ち際に並んで腰を下ろす。
何の話をしているのだろう。元気が無いようだったし相談事だろうか。
「おい」
「うわっ」
いつの間にか僕の後ろに巳影さんが立っていた。
お化けでも見たかのような声を上げた事に気分を害したのか、むっとした表情で僕を見下ろしている。
「これ、お前のだろ」
巳影さんの手のひらに乗っていたのは、チヨさんがくれたミモザの刺繍だ。
慌ててズボンのポケットから鍵を取り出すと、刺繍の部分から紐が切れてしまっていたらしい。
「ありがとうございます!職場の利用者さんから頂いた物で、大切な物なんです。それなのに気付かなかったみたいで……あぁ、良かった」
家に帰ってから修理しようと、失くさないように財布に仕舞う。
「これ、どこに落ちてました?」
巳影さんと話をしたいと密かに思っていた僕は、席に戻った彼にチャンスとばかりに話しかけた。
僕にきつく当たったことを気にしていたという話を愛さんから聞いたから尚更だ。
こうしてここに通って顔を合わせる以上、少しは打ち解けておきたい。
彼の姿を見る度に肩に力が入ってしまうのが嫌だったのだ。
少し鬱陶しそうに睨まれたが、愛さんが「ほら、巳影さん」と促すと、諦めたように口を開いた。
「ここに来る途中にある林の前だよ。子供のタヌキが持って行こうとしてたぞ」
一度だけ見たタヌキの親子が頭に浮かぶ。
あの子供が、これを拾って持って行こうとしていたのか。
想像するだけで可愛い。
「そういえば、あそこの林に古い祠があるの知ってます?石階段もあって、どこかに繋がってるみたいで。気になって今日も見てたんですけど、草が生い茂ってよくわからなかったんですよね」
巳影さんは「知らねえよ」とそっぽを向いてしまった。
しまった。振る話題を間違えたのだろうか。
それとも彼は僕が話しかけること自体が鬱陶しいんじゃないだろうか。
ここまでつれない態度を取られると、そう思えて仕方ない。
「あの石階段は神社に繋がっているんですよ。と言っても、今は廃神社になってしまっていますけど、昔は海の神様がいらっしゃったんです」
絵を描いていた愛さんは、スケッチブックを閉じた。
水彩色鉛筆や細かな道具を片付け、巳影さんの空いたカップを下げる。
廃神社という言葉に少し切ない気持ちになって、残っていたアイス珈琲を一気に飲み干した。
「ごちそうさまでした」
「あら、お帰りですか?小鳥遊さんたちは戻っていらっしゃらないのかしら」
会計を済ませると、丁度小鳥遊が戻って来た。
「あれ、樋口さんは?」
「今日はもう帰ったよ。愛さん、ミックスジュースお願いします」
小鳥遊はそう言って窓辺の席にどさりと座った。
愛さんがリンゴやバナナを取り出し、ナイフで切り分ける。
帰る間際に一度店内を振り返った。
樋口さんと一緒に散歩に出るまではご機嫌だったはずの小鳥遊までもが、浮かない顔をしているように見えた。




