7
カランコロン
黒猫と月に、軽やかなベルの音が鳴り響く。
「どうも、お久し振りです。今日は賑やかですね」
「あら、龍さん。いらっしゃいませって、あぁっ」
キッチンの中の作業スペースに置いていた、水筆ペンを浸していたカップが床に落ちる音が聞こえた。
「愛さん――」
「おい、大丈夫かよ」
僕がよりも先に反応した巳影さんがキッチンに入り、びしょ濡れになった床を手際よく拭く。
「ご、ごめんなさい」
「気を付けろよ。包丁落としたらあぶねぇぞ」
「うん……」
幸い水彩色鉛筆を滲ませる為に使うもので絵具のような色付きの水にはなっていなかったらしく、どこも汚れずに済んだようだ。
中途半端に立ち上がりかけたものの行き場を失った僕は、何事も無かったかのようにじわじわと椅子に腰を下ろす。
龍さんに水とメニューブックを運んだ愛さんの頬は、ほんの少しピンク色に染まっているように見えた。
アメリカン珈琲を注文した龍さんは「ふむ」と頬杖をついて窓の外に目を向ける。
「お姉ちゃん。おじさん、目見えないのかなぁ」
子供なりに気を使って声を小さくして言っているが龍さんにはしっかり聞こえている気がする。
龍さんは敢えて答えず、海に顔を向けたまま瞼を伏せた。
「そうかもしれないね。ほら、マリ。あと一口残ってるよ。それ食べたら帰ろう」
マリちゃんの気を逸らすように、小鳥遊は一口分のケーキが残った皿を指さした。
どうしても気になるらしい彼女は、龍さんと、立てかけてある白杖を交互に見る。
「目が見えないと、真っ暗なんでしょ?可哀相だよね……。マリ、暗い所怖いもん。アニメも漫画も見れないし、ママの顔も見れないなんて悲しいよ。治ると良いのにね」
樋口さんとなんとなく視線が合う。
彼は読むタイミングを失ったままの本を伏せ、言葉を探すように目を泳がせていた。
「マリ、もう帰るよ。あの、すみません。まだ子供でよくわかっていないもので……」
居たたまれない様子で立ちあがった小鳥遊は、鞄を肩に掛けてマリちゃんの椅子を机から離した。
「おや、構いませんよ」
帰ろうとした二人に気付いた龍さんは、小鳥遊に席に座るよう促す。
「マリちゃんと言ったね。君は優しいね。ちゃんと相手の気持ちになって考えるのはとても良い事だよ。おじさんの目が見えるようになると良いのにって思ってくれて嬉しい。ありがとう。でもね、マリちゃんがそんなに気を落とす事はないんだ。おじさんは、目が見えない事を悲しいと思っていないからね」
「そうなの?」
意外そうなマリちゃんに、龍さんは頷いてみせた。
海の上を、鳥が翼を広げて飛んでいく。
風に乗って、気持ちよさそうに。太陽の光を全身に浴びて、青い空を飛んでいた。
「あの鳥は僕たち人間みたいに長く生きられない。それを可哀そうと思う?」
その質問に、マリちゃんは暫く悩んでから首を横に振った。
「空が飛べて羨ましい」
その答えに、龍さんは嬉しそうににっこりと笑った。
「海を泳ぐ魚も、地上では生きていけない。だけど彼らは海の世界で力いっぱい生きている。人間だって、みんな苦手な事があるだろう?でも、その代わりに得意な事もある。おじさんは耳や鼻が良くてね。多分、みんなが感じているものよりずっと色んな匂いや音を知っていると思う」
「すごい。だからおじさんはずっと窓の外を見てたの?」
マリちゃんが目を丸くして、龍さんの話に聞き入っていた。
小鳥遊も安心したように、二人の様子を見守っている。
「鳥の囀りや、夏の虫の声。海の匂い。太陽の匂い。そういうのを全部ひっくるめて、おじさんの瞼の裏には景色が見えてるんだよ。大切な人の顔が見えなくても、声は聞こえる。優しい声、怒った声、悲しい声、全部聞こえる。手に触れたら体温も感じる。顔は目に見えなくても、想いは人一倍見えていると思うんだ」
「ごちそうさまでした。龍さんも、ありがとうございました」
小鳥遊が帰り際、愛さんと龍さんに頭を下げる。
「おじさん、いっぱいお話してくれてありがとう」
マリちゃんが龍さんに駆け寄って手を握った。
「おじさんも楽しかったよ。元気でね」
夏の夕方は日が長い為、5時になった今でも随分と明るい。
小鳥遊たちが店を出てすぐ、樋口さんも職場から電話が掛かってきてそのまま帰ってしまった。
袋一杯に折った鶴。
残っていた折り紙を袋に入れて一緒に仕舞い、お代わりで頼んだアイスレモンティーを一口飲む。
さっぱりとした味わいが、夏にぴったりだ。
「凄いですね。いくら好きな本だからって、あんなに文章をしっかり覚えているものなんですね」
龍さんはマリちゃんに、宮沢賢治の銀河鉄道の夜を話していた。
僕も以前ここで読んだので話は覚えていたが、もちろん彼ほど細かくは覚えていない。
「自分の言葉に置き換えて話しているがね。子供の頃から毎日読んでいた本だから、身体に染みついてるんだよ」
「目が見えない分、いろんなものを感じ取れるねぇ」
巳影さんの含みを持たせたような言い方に、少しだけ僕の身体に緊張が走る。
龍さんは変わらず窓の方を向いたまま、目を伏せていた。
白髪交じりの前髪が、夕方の柔らかな風に揺れる。
「巳影さん、あまり変な事言わないで」
注意されると、ふんと気に入らないと言ったように愛さんから目を逸らす。
何を怒っているのか、気に喰わないのか知らないが、何故か僕が気まずくて仕方ない。
前回僕は無責任な事を言うなと言われるし、今日は龍さんにこんな態度だ。
言いたいことがあるならはっきり言えばいいのに、と僕まで嫌な気分が渦巻き始めてしまう。
「そ、そうだ。愛さん、この辺りって猫多いんですか?」
せっかく愛さんに会えているのだ。毎回毎回、こんな嫌な気分で帰りたくない。
雰囲気を変えたくて、無理矢理話題を変えてみた。
「猫ですか。そうですね。私も見たことがありますよ」
「僕、前に黒猫を見たんですけど、案外可愛いんですね。黒い猫ってよく不吉だとか言われたり、魔女の使いだったり、ちょっと怖いイメージがあったんですけど」
そこまで言ってハッとした。
巳影さんが睨んでいる。
睨んでいるというか、元々睨んでいるような目つきだからそう見えるのか。
「この前、僕の働く介護施設の前にもいたんですよ。一緒にいた利用者さんのお婆ちゃんもとても喜んでいて。黒猫ってあちこちにいるんですかねぇ。もしかして、ここにいた猫があんな遠くまで来たのかなーなんて思ってりして」
駄目だ。これ以上話を広げられない。
雰囲気は変わったというより、何となく悪化しているようにも感じる。
愛さんは「……そうなんですか。私も見てみたかったです」とにっこり微笑んでくれたのが救いだ。
龍さんは伏せていた目を開け、ぼうっと海を眺めながら僕の話を聞いていた。
「猫……か。黒猫は、夜の闇を守る神様の使いと言われる話もある。それに彼らは僕たち人間よりもずっとずっと純粋な生き物だ。人間より不吉だと恐れる相手じゃないよ」
龍さんの言葉に巳影さんはきつく彼を睨み、テーブルの上に置いた拳をぎりぎりと握った。
それに気づいた愛さんが、巳影さんの手にそっと触れる。
僕の見えない所で通じ合っているような二人から、無意識に目を逸らしてしまう。
「帰るわ。愛、ちょっと」
ドアの前で愛さんを呼びつけ、彼女に何か耳打ちした。
「大丈夫よ。心配性ね」
「お前が甘すぎるんだ」
一見冷たいような物言いだが、愛さんに対しての彼の言葉は、いつだって言葉の底に優しさを感じる。
温もりというか。
友情のような。
愛情のような。
そのあと、龍さんは7時前に帰って行った。
夏の夜も、七時を過ぎると空が濃紺に変わりはじめる。
時刻が過ぎるにつれ星が瞬き始め、蒼い海に灯台の薄い光が伸びていた。
「今日熱心に折ってらっしゃった鶴は、先日お話されていた方のものですか?」
アイス珈琲に添えられていた手作りマドレーヌを食べながら「そうです」と頷いた。
しっとりとしていて、甘いバニラの香りがするマドレーヌはとても美味しい。
小腹がすいていた僕の胃袋を、ほんのりと満たしてくれる。
「愛さん」
聞いても良いのだろうか。今なら二人だ。思い切って聞いても誰にも睨まれる事も無いし、答えたくなかったら愛さんも適当に流してくれるだろう。
「愛さんと巳影さんはその……恋人同士というわけでは無いんですか?」
他愛の無い会話の一部だと言わんばかりに、珈琲を飲みながら出来るだけの平静を装った。
僕は嘘が苦手だ。顔に出ているかもしれないと思ったが、愛さんはきょとんとした顔をしていた。
「恋人?えーっと、それは無いですよ。巳影さんの事は好きですけれど、それはとてもお世話になった方だからです。もしかして私たちが親し気に話していたからでしょうか?」
その答えに安堵して全身の力が抜けていた僕は「えっと……いや、まぁ」と情けなく笑う。
「僕、前に彼の気に障る事を言ってしまったみたいで、怒らせてしまいましたよね。未だに少し気まずくて……巳影さん、愛さんに何か言ってませんでした?」
隣の席にやってきた愛さんは「いいえ」と頭を振る。
「彼はとても良い方なんです。凄く不器用でぶっきらぼうなんですけど、私なんかよりも心はとても綺麗な方なんですよ。だからこそ……その、私の事を心配して滝本さんに失礼な事を言ってしまったんだと思います。だから謝るべきは私なんです。ごめんなさい」
椅子に座ったまま膝の上に両手を乗せ、頭を下げた。
「あぁ、やめてください。謝ってほしいわけじゃないんです」
「きつい言い方をしたかもって彼自身も気にしていたんですよ。あの性格だから結局今日も不愛想でしたけど」
巳影さんがそう思っていたなんて。
それに、愛さんよりも心が綺麗?彼が?
到底そんな風には見えないが、なんだか笑いがこみ上げた。
「そうですか。少し安心しました」
くすくすと笑う僕に愛さんは不思議そうにしていたが、彼女もつられるようにして笑っていた。
折り鶴が入った紙袋が、僕の身体に擦れる度にカサカサと音を立てる。
田舎の夜道は真っ暗だ。ずっと道の先にぽつんと立つ街頭が時々チカチカと明滅し、哀愁を漂わせていた。
リィリィリィ
ギィー ギィー
道の両側の鬱蒼とした林の中から、様々な虫の鳴き声がする。
この道は時々たぬきが出没する。
引っ越してきた頃、何度かこの場所で狸の親子が林から林へ移る為に道を横断しているのを見かけた。
親狸が慣れた様子でテテテッと溝も渡るのに対して、子狸は小さな歩幅で後を追いかけ、見事に溝にはまっていた。
思わず「あっ」と声を上げそうになるのを何とか抑えて離れた所から様子を見ていると、親狸が子狸の元へ引き返し、二匹は目的の林の中へと消えていったのだ。
何もない田舎ではあるが、不意にそういう面白い物が見られるのも魅力のひとつだ。
今も頭上には細かい星が散らばっているのが見えるし、夜の風が緑の匂いを抱いて吹き抜けるのも心地いい。
「あれ。あんなのあったっけ」
スマホのライトを点け、僕が歩いている側の林の中を照らす。
繁茂する雑草に埋もれる小さな祠が見える。
随分と古いものなのだろう。屋根には厚みのある苔がべったりと張り付き、木材もかなり傷んでいる。
扉には深い緑色の布がカーテンのように掛けられていた。
祠の傍には石階段があるようだ。
石段が続く先はライトの光も届かず、目を凝らしても真っ暗闇で何も見えない。
今度ゆっくり見に来るか。
ライトを消して、再び歩き始める。
水張田が広がる直線の道を、蛙の大合唱を楽しみながら家路についた。




