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「折り鶴なんて久しぶりに見ましたねぇ」
「あぁ、樋口さん。こんにちは」
「どうも、こんにちは」
七月のある昼下がり。
海辺の小さな町を囲む山々は、蝉が溌剌とした声を響かせている。
海や空の景色も、梅雨の頃とは違って目が覚めるような青さに変わっていた。
休みの今日は、黒猫と月で珈琲を飲みながらチヨさんと約束した鶴を折っている。
樋口さんは隣の席に腰を下ろして愛さんに珈琲を頼むと、読みかけのアガサ・クリスティーの本と、しおりメモをテーブルに置いた。
カウンターに肘を付いて愛さんが珈琲を淹れる姿を見つめているのは巳影さんだ。
前回の別れ際に『無責任な事を言うな』と詰め寄られた事を思い出して居心地の悪さを感じたが、ここで帰ってはあまりにもあからさまだと思うと、帰るに帰れなくなってしまっていた。
幸い、巳影さんは特に何も言ってくることは無かった。
それでも何となく気まずいなと思っていた矢先、樋口さんが現れたのが救いだ。
愛さんが運んできたブレンド珈琲から、芳醇な香りが漂う。
僕は完成した鶴をひとつ紙袋に入れて、新しい折り紙に手を伸ばした。
あれから暇さえあれば鶴を折っている。
チヨさんももう85歳だ。
持病もあるし、僕へのお礼だという刺繍まで作ってくれているというのもあって、これ以上無理をさせるわけにはいかない。
僕が沢山作っているのを見せて、少しでも満足してくれると良いのだけど。
樋口さんが読んでいるのは『そして誰もいなくなった』という、ミステリー小説だ。
孤島に集められた男女10人が、童謡の歌詞になぞらえて一人、また一人と殺されていくという物語らしい。
実は僕もちょっと気になっている物語ではある。
というのも、樋口さんの入り込みようを見ていたら、どんなに面白いのだろうと興味が湧いてしまったのだ。
ここにいながら、ここにいないかのような。
樋口さん自身がどっぷりその世界に入り込んでいた。
樋口さんの隣で時々アイス珈琲を飲んで一息つき、猫背の体勢でがちがちに固まった筋肉をほぐすように伸びをしてから、また鶴を折るという作業を繰り返した。
チヨさんが想う人はもうこの世にはいない。
だけど、きっと彼女の中では生きている。
その人たちへ、彼女の想いが届きますように。
一枚一枚を折る度に、願いをかけて折っていく。
絵を描いている愛さんが、色鉛筆を持ち変える音。
巳影さんがミルクのカップをテーブルに置く音。
樋口さんがページを捲る音。
そして僕が鶴を折る音。
静かな店内に、そんな日常の音がコトン、カタン、と小さく聞こえてくる。
静謐な、慌ただしい日常から隔離されたような穏やかな空気を破ったのは、やっぱりあいつだ。
「おっ、皆さんお揃いですなぁ」
悪代官かのような「うひひ」という訳の分からない笑い方をしながら現れたのは、小鳥遊だ。
さっきまでこっちがくしゃみをしようと、折り紙を床に落とそうと反応ひとつ見せなかった樋口さんが、僕より早くドアの方を振り返った。
「ひかるさん!って、え……」
彼が言葉に詰まる。
僕も同じだった。きっと今の僕たちは、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしている気がする。
小鳥遊の後ろでもじもじと恥ずかしそうに隠れているのは、おかっぱ頭の小さな女の子だ。
「あらぁ、まぁまぁ。いらっしゃいませ」
愛さんはとても嬉しそうにキッチンから出てくると、店の隅から子供用の椅子を持って、僕たちの座る窓辺のテーブルに置いた。
「ほらほら、マリ。そこに座ろうね」
マリちゃんと呼ばれた幼稚園児くらいの女の子は、椅子の座面に手をついてよじ登り、ちょこんと座る。
「あー、暑かったぁ。アイスティーお願いします。マリは何にする?」
メニューとにらめっこしていたマリちゃんは、しばらくして「これがいい」と写真を指した。
「ミックスジュースね。マリはいつもそれだねぇ。愛さん、ミックスジュースお願いします。あと、そのラズベリーがいっぱい乗ってるケーキも」
「良いの?!」
「三時のおやつにはちょっと早いけど、細かい事は気にしない気にしない」
さっきまでもじもじしていたのはどこへやら。
マリちゃんは、満面の笑みで「ありがとー!」と足をバタつかせていた。
「なになに、滝本君新しい趣味でも始めたの?」
鶴を折りかけていた僕の手元を小鳥遊が覗き込むが、状況が飲み込めなくて頭がぐちゃぐちゃだ。
「あ。やだー、違うって。マリは親戚の子!この子の母親がぎっくり腰で動けなくなっちゃってさぁ。片親だからって、私が連休中の二日間だけ預かる事になったの。何?隠し子かなんかだと思った?そんなわけないじゃーん」
「そっか、そうだよな」
動揺を誤魔化すように珈琲のグラスを傾ける。
既に空になっていたそれは、溶けかけの氷だけが滑り唇にぶつかる。
樋口さんに至っては気が抜けたのか、読みかけのページに挟んでいた指がするりと抜けてしまい「あぁっ」と情けない声を漏らした。
「お姉ちゃん、これ凄く美味しい。一口どうぞ」
「えっ、良いの?ありがとう!マリちゃんは優しい子だねぇ」
マリちゃんの綺麗に揃ったおかっぱ頭を「よしよし~」と撫でる。
自分の子供でもないのにデレデレだ。
巳影さんは、賑やかな僕たちとの間に見えない壁でもあるかのように、我関せずの態度を示していた。




