4
目が覚めると、隣にいたはずの樋口さんの姿がなかった。
窓の向こうは真っ暗だ。
闇が広がる海に、灯台が真っ直ぐの光を放っている。
「おはようございます。目覚めに、何か淹れましょうか?」
夜の黒猫と月は初めてだ。
壁やテーブルの隅にあるべっ甲色の光を灯すランプが、落ち着いた雰囲気を演出していた。
「じゃあブレンド珈琲を――あっ」
振り返ると同時にブランケットが肩から滑り落ちそうになり、慌てて受け止めた。
愛さんが掛けてくれたらしい。
せっかくゆっくり過ごそうと思っていたのに、これでは寝に来たみたいだ。
あげく、迷惑までかけてしまうなんて。
「寝てしまってすみません」
「大丈夫ですよ。お客様が珈琲を飲んで、本を読んだり、景色を楽しんだり。勿論眠るのも構いませんし、お好きに過ごしていただきたいですから。いらっしゃった時から少しお疲れのようでしたし、眠れたのなら良かったです」
温かいブレンド珈琲を持って来てくれた愛さんは、隣の椅子に腰を下ろした。
僕が座っている席の窓以外は、すべてに白いカーテンが引かれている。
「もう閉店時間ですか?すみません、すぐ帰ります」
腕時計を確認すると九時前だった。
慌てて珈琲を飲んでしまおうにも、熱くて一気に飲むのは無理だ。
「大丈夫ですよ。私は何も急いでいませんし。滝本さんは明日お仕事ですか?」
「いえ……あぁ、少しだけ職場に行かなくちゃいけないんですけど」
それでもこの珈琲を飲むまでの時間くらいは大丈夫だろう。
せっかく淹れてくれた珈琲だ。最後の一滴まできちんと味わいたい。
窓の向こうに横たわる夜の海は、とても静かだった。
遠くにぽつんと、船らしき灯りがひとつ見える。
「突然、鶴を折るのってどういう感情の表れなんでしょう」
「鶴、ですか?」
突拍子もなく口にした僕を、愛さんが不思議そうに見つめる。
「凄く必死なんです。それまで好きだった事も辞めてしまうほど」
僕が余計な事をしたせいもあるだろうが、何がチヨさんをそんなふうにさせているのか。
温かい珈琲にそっと息を吹きかけてから、口に含む。
芳ばしさと、ほんのりと苦み、甘さ、全てがまろやかに混ざり合う香り豊かな珈琲に対して、僕の心は目の前に広がる夜の海の底にいるようだ。
「確かな事はわかりませんが、誰かの為なのではないでしょうか」
「誰かの……ですか」
チヨさんにはもう親族はいない。
旦那さんは他界しているし、チヨさんの部屋にも生前の写真が飾ってある。
毎朝その写真の前に温かいお茶を供えて手を合わせるのが日課なのだ。
いくら記憶があいまいになってしまったとしても、その行為が何のためかということくらいチヨさんだってわかっているはずだ。
「でも、その人にはもう誰もいないんです。家族と呼べる人は亡くなっていて、彼女もちゃんとわかってます」
しん、とした店内。
壁のランプが、愛さんの表情を優しく照らす。
珈琲を飲む愛さんが瞼を伏せると艶のある長いまつげが際立ち、少しどきっとした。
「亡くなってしまっても。誰かに話す機会は無いとしても。大切な人への想いは心の片隅にずっとあり続ける。年老いても。老いて、老いて、いずれ沢山の事を順番に忘れてしまっても」
忘れてしまっても、思い出す大切な想い。
愛さんの言葉を聞いて、ようやく僕はハッとした。
「そうか。……うん、そうだ。愛さん、ありがとうございます」
「いえ。何かお役に立てたなら光栄です」
にっこりと愛さんが笑う。
海の向こうに浮かぶ月には薄雲がかかり、青白い光の輪ができていた。
開けていた窓の向こうに、下弦の月が浮かんでいる。
景色の中に見える国道とオレンジ色の街頭。
大型のトラックが2台、山のトンネルに向かって走って行く。
誰もがみんな、人に言わない想い、言えない悩みを抱えて今日も生きている。
景色の一部として過ぎ去る人達にもそれぞれの人生があるのだとすると、この世界は数多の想いで溢れているように思える。
ベランダの窓に映る自分の頬を、そっと指でなぞる。
人は最期の時が近付くと何を思うのだろうと、この仕事をしていると度々考える。
沢山の日々を共にしてきた人を見送ることの多い僕の仕事は、その度に悲しんでいては身が持たない。
だからこそ、いつの間にか誰かが亡くなっても深く考えないようにしていた。
果たしてそれでいいのだろうか。
少しでも僕を想ってくれた人、可愛がってくれた人、関わった人の死を「日常の一部」として過去に流してしまうのは正しいのだろうか。
きっとチヨさんはいま、いろんな事を忘れている。
いろんな事を忘れて、きっと僕のことも忘れてしまう。
だけど忘れていく日々の中、ずっと心の奥に蓋をしてきた想いが今になって溢れているのだろう。
毎日手を合わせている相手が亡くなっていることは頭ではわかっていても、どうしても抑えきれない想いというものもあるのかもしれない。
理屈では説明できないことが、人の感情なのだろうと今なら思う。
5か月で亡くした子供のこと。
恐らくチヨさんは、その子に宛てて鶴を折っているのだ。
その時まで記憶が遡っているのかもしれない。
もしかしたら生きていると思っているのかもしれない。
記憶の中では、もしかすると……。
「旦那さんも、生きているんだろうな」
ぽつりと呟いた僕の言葉は、夜の空に霧散した。




