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「こんにちは。あれ?」
店に着いたのは、二時を少し過ぎた頃だった。
いつもは必ずカウンターから愛さんが迎えてくれるのだが、今日は姿が見えない。
「ごめんなさい。いらっしゃいませ。床にお砂糖をこぼしてしまって片付けてたんですよ。すぐにお水お持ちしますから、お掛けになっててください」
キッチンの下にしゃがんでいたらしい愛さんが、恥ずかしそうにひょっこりと顔を出して苦笑した。
「あ、滝本君!二か月振りー、いやそろそろ三か月ぶりか」
窓辺の席にいたのは小鳥遊だ。
隣には見慣れない男性が座って「こんにちは」と会釈している。
「あ、えっと初めまして。小鳥遊の知り合い?」
男性は僕たちと同じ歳くらいだろうか。
僕は小鳥遊の隣の席(僕の指定席)に座る。
小動物というか、彼のような人を世間では子犬系男子と呼ぶのだろうか。
落ち着いた雰囲気と少し幼さの残る顔立ちの彼は、樋口さんと言うらしい。
「ここで知り合ったの。このマンションに住んでるんだって」
樋口さんも「そうなんです」と頷く。
そう言えば夜にマンションの前を訪れた時、二部屋だけ電気が点いていたのを思い出す。
「ここ、僕と独り暮らしの高齢の女性しか住んでいないんですよ。その女性も東京の娘さんの家に引っ越すとかで、来週からはついに僕一人になってしまうんです」
三階建てのマンションに住人がひとり。
愛さんはこの店に住んでいないのだろうか。
この店はもともと二部屋だったのを壁を取り除いて一部屋にしているらしく、他に部屋は無い。
「5月の中頃に仕事でちょっと色々悩んでて、久しぶりに珈琲を飲みに来たらひかるさんに会ったんです。彼女が凄く明るく声を掛けてくれて、他愛の無い話をしているだけでしたが、心が少し軽くなったんです」
「樋口君、なんかすんごい暗い顔しててさー。でもここに来たって事は、独りになりたいわけじゃないって事でしょ?だから話しかけちゃった。滝本君を見習ってね」
「僕?」
全く身に覚えが無くて首を傾げていると、愛さんがメニューとお水を持って来てくれた。
「私、フルーツショコラとアイスミルクティーで!」
「小鳥遊、それ食べた後じゃないのか?」
小鳥遊の前にある生クリームの欠片が残った皿を指す。
「これはあれだもん。お昼前に頼んでたやつだもん」
「朝からずっと居たのかよ」
「だって風も気持ちいいし、景色は良いし、愛さんは優しいし。落ち着いてて好きなんだもん」
口を尖らせる表情はまるで子供だ。
「小鳥遊さんはいつも開店時間からお昼過ぎまではいらっしゃいますもんね」
愛さんが言うと、小鳥遊が「そうそう」と満面の笑みを浮かべた。
「まじかよ」
開店時間からいるのなら、いま目の前にある空の皿はきっと一食目の物じゃないだろう。
何食食べるつもりなんだと、心の中で引いた。
と言うよりも、いつのまにそんなに居座るようになっていたのだ。
すっかり常連じゃないか。
樋口さんとも親し気に話す仲になっていたのも頷ける。
微妙に悔しい。
「僕はアイス珈琲とミルクレープをお願いします」
このとき、拗ねたような表情でもしてしまったのかもしれない。
ケーキと一緒に鳥の型抜きクッキーをサービスされて、ちょっと恥ずかしくなってしまった。
六月も終わりが近付いてくると、どんどん夏の気配が近付いてくる。
長かった梅雨も明けてほっとしていると、日毎にどんどんと気温が上がり、テレビでも夏日という言葉を耳にする機会が増えた。
夜勤明けの今日は寝不足ではあるものの、さっきまで重たかった身体も少し楽になった気がする。
最後のひとくちのミルクレープを口に運ぶ。
さらりとした甘さのクリームと、柔らかいクレープ生地が口の中で合わさる。
小鳥遊もちまちまと食べていたケーキの残り一欠けらを、まるで人生においての最期の一口かのように味わっていた。
その向こうで樋口さんがブレンドコーヒーを飲んでいる。
強い陽射しが降り注ぐ海。白い波が浜に打ち寄せていた。
その浜を、小さな女の子が駆け回る。
後を追いかけるのは母親だろうか。
高い位置で二つに結んだ女の子の艶のある髪は、飛び跳ねる度にぴょこぴょことうさぎのように跳ねている。
僕の視線の先にいる親子に気付いた樋口さんも「良いですね、平和で」と微笑んだ。
「可愛いよねぇ、子供。私もこの歳になったら、周りから色々言われるわけよ。片親育ちで母親が死んだからってお気楽な訳じゃないのよねぇ」
氷の入ったミルクティーをストローでかき混ぜながら、小鳥遊がぼやく。
高校の頃に母親を事故で亡くした小鳥遊は、以来、親戚の家で暮らしていた。
「育ててくれたおばさん家族がそういうこと言わないのは助かるんだけどさぁ。まさかの職場で言われるわけよ。年下の子たちが寿退社すると、なーんか変な視線向けられたりもするし。ま、別に良いっちゃ良いんだけどさ」
一気にミルクティーを吸い上げ、ずずずっという音が鳴る。
「あ、今日このあと職場行かなくちゃいけないのよ」
「休みじゃないのか」
時刻は四時を回っている。
「休みなんだけど、新人の子が悩んでるみたいで話聞きに行くの。じゃ、またねー」
机に出していたスマホと財布を鞄に突っ込んだ小鳥遊は、どたばたと会計を済ませて出て行った。
店の中が、しんと静まり返る。
ほんと、嵐みたいなやつだな。
「相変わらず賑やかな人ですね」
そう言って笑う樋口さんに、迷いなく頷く。
「声もでかいですからね」
彼女なりにボリュームを下げているつもりのようだが、それでもやっぱり大きい。笑い声も大きいから、いなくなると一気に静かに感じる。
「愛さん、今日は何を描いてるんですか?」
樋口さんはアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』というミステリーに夢中のようで、こちらを気にする様子も無い。
「前に滝本さんを描いても良いと仰ってくださったので、お言葉に甘えて」
見せてくれたスケッチブックには、なんと僕が珈琲を飲みながら窓の向こうに目を向けている横顔の絵が描かれていた。
自分で言うのもなんだが、こんなに男前だったっけと自分の頬に触れる。
海を見ているのだろうか。
どこか遠くを見つめているような目で、ぼんやりとしている。
他人から自分はこう見えているのかと、少し恥ずかしくなって前のページをぱらぱらと捲ってみた。
なんだろうか、この違和感は。
描かれているのはお客さんや、何気ない景色を切り取った絵だ。
巳影さんに、龍さん。小鳥遊も、樋口さんもいる。そして僕。
「あれ、龍さんの絵が多いんですね」
割合として少し多いように見える。
「そうですか?あら……本当ですねぇ、ふふっ」
愛さんはスケッチブックを胸に抱えて、カウンターの向こうに戻る。
でも多分、それだけじゃない。
正体のわからない違和感が気になって仕方ない。
愛さんはスケッチブックを仕舞い、珈琲豆が締まってある棚の周りを布巾で拭く。
もうすぐ六時だ。
濃厚な夕焼け色が、海にとろりと溶ける。
色が入り混じる空を、鳥がどこかへ飛んでいく。
僕はテーブルに腕を枕代わりにして、うつらうつらとその景色を楽しむ。
樋口さんが小説のページを捲る音。
店のなかにいつもある、珈琲と古書の匂い。
時折ふわりと吹く風に、前髪が揺れる。
気持ちいいなぁ。
その感覚を最後に、僕の意識は途切れた。




