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「おー、今日もよく食べるなぁ」
餌をぱらぱらと撒くと、独り暮らしの相棒である金魚が懸命に口をぱくつかせる。
夜勤から帰宅した僕の姿を見るなり、水槽のガラス越しに追いかけるのだ。
右に行けば、右にすいすい。
左に行けば、左にすいすい。
やがて水面に上がって来て「ごはん、ごはんくれー」とばかりに催促するのがたまらなく可愛くて、僕のスマホはすっかり金魚の写真で埋め尽くされていた。
こうなってくると、もう何をしていても可愛い。
お尻にフンをくっつけて泳いでいる姿すら、ちょっとお間抜けにも見えて可愛かった。
いよいよ彼女なんかできないだろうな。
一匹の金魚相手にデレデレな30歳の男など、気味が悪いだろう。
愛さんなら笑って許してくれるだろうか、なんて馬鹿げた事を考えてしまい慌てて頭を振った。
「さっさと風呂済ませるか」
餌が入った袋の口を閉めると、金魚は「もうおしまいかー」と、そっぽを向いて水草の茂みへと泳いでいった。
珍しく湯船に湯を張った。
ゆっくり浸かっているといつの間にか眠ってしまったらしい。
鼻まで沈みかけて飛び起きた。
風呂から上がると冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出してタブを開ける。
プシュッと鳴り、一気に喉に流し込んだ。
火照った体に、冷たいビールが流れこむ。
夜勤明けの朝っぱらから飲むビール。
仕事終わりなのだから別に悪い事をしているわけでもないのに、背徳感がよりビールを美味しくさせる。
「あー」
これでは立派なおっさんだ。
冷蔵庫の前で腰にタオルを巻いて缶ビールを持つ自分の姿が、壁に立て掛けた姿見鏡に映って笑いが零れる。
まぁ、おっさんもアリか。
これはこれで楽しい。
ひとり楽しい気分に浸っていると、テーブルに置いていたスマホが鳴り響いた。
「あ、滝本君お疲れさま。ちょっと相談があるんだけど」
来た。
フロアリーダーからの相談なんて、だいたい予想がつく。
はいはい。どうせこれでしょ、と心の中でぼやきながらペンを手にシフト表の前に立つ。
「明日休みのところ悪いんだけどさ。午前中ちょっとだけ来てくれない?滝本君しか頼れる人がいないのよ。チヨさんの事ね」
「チヨさん、ですか?」
誰かとシフトを変わってくれとか、休みを別日に変更したいとかそういう事かと思ったが、予想外の名前に間抜けな声で聞き返してしまう。
「私、今日は日勤から入ってるんだけどさ、朝食の後からチヨさんもうずーっと鶴作ってるのよ。申し送りで聞いたんだけど、滝本君が鶴の折り方描いてあげたんでしょ?チヨさん、今までデイサービスも楽しみにしてたのに『行かない』『放っておいて』って言って、ずっとよ。今朝みたいに気が立ってるわけじゃないんだけどさ。とりあえずほら、明日の朝来て様子見てくんない?」
まさかそこまでになっているとは、僕も無責任な事をしてしまったのかもしれない。
「今から戻りましょうか」
「あぁ、良いの良いの。今日はとりあえずこっちで何とかするから」
よかれと思ってしたことを、今更になって後悔した。
「わかりました。明日行きます。ご迷惑おかけしてすみません」
「いやいや、良いのよ。お陰でご飯は食べてくれるようになったんだから。じゃ、お願いね」
通話が切れたのを確認して、スマホをベッドの上に放った。
「どうしたのかなぁ、チヨさん」
玄関の鍵掛けにぶらさがる、ミモザの刺繍。
新人の頃から、僕の事を応援してくれていたチヨさんに何かが起こっているのだ。
あんなにも必死で鶴を作る理由。
急き立てられるように、日頃楽しみにしていた事すら断るなんてよっぽどだ。
刺繍のキーホルダーを鍵に付けたことを報告したときの、チヨさんの嬉しそうな表情を思い出して胸が痛む。
あんなにも『ありがとう』と言ってくれていたチヨさんを、僕が一番分かっていないのかと思うと自責の念に潰されそうになる。
結局そのあとは、一時間経っても全く眠れなかった。
身体は疲れているのに、瞼を閉じても一向に意識が遠のいてくれない。
体の疲労感とは裏腹に、目は冴えわたっていた。
これではきっと、朝方までこうしているだろう。
眠いのに眠れない。
ずんと肩に大石でも乗っているかのような、重い体を起こして洗面台へ向かう。
寝不足の顔を二度軽く叩いて気合を入れる。
顔を洗って、軽くマッサージをしてみたら、ほんの少し色味が付いた気がする。
「よし」と歯ブラシを手に取って、歯磨き粉を付けた。
本当は明日行こうと思っていた喫茶店だが、こんな調子なら今から行ってしまおう。
「じゃあちょっと出かけて来るよ」
ひとり暮らしの部屋に話す相手がいるというのは、なんだか楽しい。
といっても相手は金魚なので返事は無いのだが、視線や表情でなんとなく意思疎通が取れている気がする。
きっと僕が都合のいいように解釈しているだけなのだろうが、それでも話しかける僕にこうして寄って来る。
くりくりの目で見つめ、口をぱくぱくと喋っているような動きしてくれるだけで満足だった。
家の中に、自分とは別の生き物がいる。
ちょろちょろと流れる水の音。
涼し気にすいすいと泳ぐ姿もまた、僕を癒してくれる。
部屋の中からこちらをじっと見つめて、ひれをふよふよとさせて泳ぐ金魚に手を振って扉を閉めた。




