持っていったのは?
定時で仕事を終えて、のんびり着替えを済ませて会社を出た。
オープンイヤーのBluetoothイヤホンを耳にかけ、通勤用のプレイリストを流す。
チリチリと肌を焼くような日差しの中、蝉時雨と音楽が混ざり合って、夏の夕方らしい雑音が心地よく耳に残る。
最寄り駅のホームで電車を待ちながら汗を拭いていると、左肩をポンポンと叩かれた。
振り向けば、友人がニコニコしながら立っている。
「よぅ、おつかれ」
「おつかれ。奇遇やな」
イヤホンの音量を下げ、そのまま話を続ける。
「そういや、駅前出たらすぐ帰るんか?」
「いや、バスの時間が中途半端やし、喫茶店で時間潰そうかと思ってるよ」
「ちょうど良かったわ。お前に聞いてみたいことあってん」
「聞いてみたいこと?」
「おぅ。お前、変わった話とか不思議な話好きやろ?」
「まぁな。聞くだけやけどな」
「なら、聞いてくれ」
「ええぞ」
そんな会話をしているうちに電車が来て、並んで乗り込む。
駅前に着く頃には、もうすっかり“いつもの調子”に戻っていた。
駅前の喫茶店に入り、カランカランと鳴るドアベルと、ひんやりした冷気、コーヒーの香りに迎えられる。
奥の席に腰を下ろし、アイスコーヒーを注文した。
コーヒーが運ばれてきて、ふたりで軽く会釈をしてから一口飲む。
カラン、と氷がグラスの中で転がり、店内の静けさに小さく響いた。
友人はストローを指でくるくる回しながら、少しだけ視線を彷徨わせる。
そして、思い出すようにゆっくりと口を開いた。
「実はな、先月末に爺さんの家に遊びに行っててな。ちょっと不思議っちゅうか、変なことがあって聞いてほしいんや」
「おぅ。お前のお爺さんの家って、古民家の方か? それともマンションの方?」
「古民家の方や。お前が前に来た時、“ええなぁ”って言うてた家」
「あぁ、あの家か」
「おぅ。暑なってきたし、生存確認も兼ねて行ってたんやけどな。爺さんも婆ちゃんも元気そうで一安心やったんよ。でや、帰ろう思って土間で靴履こうとした時にな。鍵を落としたんや」
「手ぇ滑ったんか?」
「まぁ、そんな感じや」
友人は腕を組み、少し首を傾げる。
「でもな、不思議なんはここからでよ。……音がせんかったんや」
「音が?」
「せや。落ちたはずやのに、全然音がせんかった。で、拾おうとしたらな、爺さんが“触るな”って大きな声出してきてよ」
思わずビクッとしたらしい。
そのまま険しい顔の爺さんに居間に連れ戻され、婆ちゃんが親に電話して「今日は泊める」って言い出したという。
「へ? ってなるやろ。でも詳しく聞いても“明日の朝までは出ていくな”“泊まっていけ”しか言わへんし、鍵も触るなって言われてよ」
「……なんか理由、聞いたんか?」
「帰ってから親に聞いたけど、ふたりとも眉をひそめて首傾げてたわ。結局わからんままや」
「そうなんか」
「おぅ。まぁ、なんやったんやろなって話や」
ふたりでコーヒーを飲み干し、店を出る。
夕方の風が少しだけ涼しくなっていた。
「また飯でも行こうや」
そう言って別れ、バス停へ向かうと、ちょうどバスが到着したところだった。
席に座り、窓の外を眺めながら、ふと考える。
もし、あの時、彼が土間に降りて鍵を拾っていたら。
その問いは答えのないまま、頭の中でゆっくりと浮かんでは消えていった。




