相席したのは?
久しぶりに、平日に休みを取った。
特別な用事があるわけでもない。
ただ、繁忙期を抜けて少しだけ肩の力が抜けたから、骨休めに温泉へ行こうと思い立っただけだ。
向かうのは、山間部の静かな温泉街。
暑い夏に、昼間から露天風呂に浸かるのも悪くない。
そう考えるだけで、自然と気分が軽くなる。
タオルと着替えをバッグに入れ、撮るかどうか分からないカメラも念のため車に積み込む。
準備をしていると、鼻歌が勝手に出てきた。
車に乗り込み、エンジンをかける。
クーラーを全開にして、ナビに目的地を入力し、最近よく流れている曲を選んで再生する。
平日の昼間だからか、道は驚くほど空いていた。
「幸先がいいな」
そう独り言をこぼしながら、ゆっくりとアクセルを踏んで車を走らせた。
思ったより早く着き、受付を済ませて浴場へ向かった。
平日の昼間ということもあって、人影はほとんどない。
それだけで、もう贅沢な気分になる。
洗い場で汗を流し、サッと体を洗う。
かけ湯をして、露天風呂へそっと足を入れた。
ぬるめの湯がふくらはぎを包んだ瞬間、
「ほぅ……」
と声が漏れた。
湯気の向こうで、山の緑がゆらゆら揺れている。真昼間の露天風呂。
静かで、風の音だけが聞こえる。
こんな時間に温泉に浸かれるなんて、なんて贅沢なんだろう。
そう思いながら、長い時間ゆっくりと湯に身を預けた。
風呂上がり、脱衣所の自販機でコーヒー牛乳を買う。
冷たい瓶を手に持って、ぐいっと一口。
甘さと冷たさが喉をすっと通っていく。
ふと窓の外を見ると、夕日が少し傾き始めていて、山の端が綺麗なオレンジ色に染まっていた。
「飯も食って帰るか」
そう呟きながら温泉を出る。
外の空気はまだ少し暑いけれど、湯上がりの身体にはその熱さも心地よかった。
「いっそ泊まりにすればよかったな」
そんな独り言をこぼしつつ、通りにある小さな居酒屋の暖簾をくぐる。
店に入った瞬間、出汁の香りと、煮魚の甘い匂いがふわっと鼻をくすぐった。
空腹が一気に刺激されて、腹がぐぅと鳴る。
カウンター席に腰を下ろすと、店主が「いらっしゃい」と穏やかに声をかけてくれた。
湯上がりの身体に、店の温度と香りがじんわり馴染んでいく。
烏龍茶を注文し、つきだしと冷たいおしぼりを受け取る。
手を拭きながらメニューを眺め、地元の名物を何品かとご飯を頼んだ。
早い時間のおかげか、客は俺ひとりだけだった。
料理が運ばれてきて、箸を取る。
一口食べたところで、店主がにこやかに声をかけてきた。
「兄さん、どこから来たの?」
「○○からです」
「暑い中、ありがとうね」
「いえ、温泉に入りたくなりまして」
そう答えながら、箸を箸置きにそっと置いた。
カチッ。
その音が響いた瞬間、まったく同じタイミングで、隣の席から同じ音がした。
えっ?と思ってそちらを見る。
……誰もいない。
首を傾げていると、店主がそっと小皿を置いた。
「兄さん、ご飯を一口分、小皿に移して残して帰りな。その分はサービスするからよ」
にこやかに笑っているのに、なぜか断れない空気があった。
「……はい」
そう返事をして、そっと米を小皿に移し、残りのご飯を食べ切る。
手を合わせて「ご馳走様でした。美味しかったです」と言うと、店主は「おぅ、ありがとうね」と穏やかに笑った。
会計を済ませ、店を出ようとした時、店主が暖簾の向こうから声をかけてきた。
「兄さん、気をつけて帰りなよ」
その言い方が、妙に胸に残った。
外に出ると、夕暮れの風が少しだけ涼しくなっていた。
車に向かって歩きながら、さっきの カチッ という音が、どうしても頭から離れなかった。




