裾を引いたのは?
平日の夕方、なんとか定時に仕事を終わらせて更衣室へ向かった。
外に出ると、日はまだ高く、照りつける暑さと湿気がまとわりついてくる。
制汗シートで汗を引かせたはずなのに、額にはすぐに汗が滲んで、タオルで拭いながら小さくため息をついた。
駅まで歩き、ちょうど滑り込んできた電車に乗り込む。
ひんやりした空気に包まれて、思わずふぅと息が漏れた。
夏休みのせいか、車内には子どもが多く、いつもより少し賑やかだ。
軽い眠気に欠伸をしながら、オープンイヤーのイヤホンをつけてスマホからお気に入りの曲を流す。
最寄り駅に着くと、改札の向こうにも子どもや学生、帰省中らしい家族連れが行き交っていた。
バス停へ向かおうと歩き出したそのとき、ズボンの裾がくいっと引かれた気がして足が止まる。
ん?
そう思って振り返るが、すぐ後ろには誰もいない。
ゆっくり視線を下げると、小さな子どもがひとり、泣きそうな顔でこちらを見上げていた。
通路の真ん中だったので、少し端に寄ってしゃがみ、子どもと目線を合わせた。
「どうしたのかな?」
そう声をかけると、
「ママが迷子になったの…」
と小さくつぶやく。
「そっか。じゃあ駅員さんのところに行ってみようか?」
そう言うと、子どもは小さく首を横に振り、
「ここで待つ…」
と涙をためながら言った。
泣かれても困るし、どうしたものかと考えながら立ち上がると、裾をぎゅっと掴んで離さない。
スマホで時間を見ると、バスまでまだ余裕がある。
「じゃあ、ちょっとだけ一緒に待ってようか?」
そう言うと、子どもは目を少し見開いてから、小さく頷いた。
壁に背を預けて周りを見渡すが、それらしい親の姿は見当たらない。
はぐれたなら駅に来そうなものだけどな……
そんなことを思いながら子どもを見ると、いつの間にかニコニコ笑ってこちらを見上げていた。
裾は相変わらずしっかり掴んだままだ。
特に何を話すでもなく、周りの雑踏が少し遠のくようにただ静かに時間が流れていく。
不意に右肩をトントンと叩かれた
そちらを見ると、友人が笑いながら立っていた。
「よう。そんなところで黄昏れて立ってんの、絵になるけど何してん」
「いや、この子がな……」
そう言いながら子どもの方へ顔を向けると、そこには誰もいなかった。
「この子がって……五分くらい前から見てたけど、お前ひとりで立ってたで」
「えっ?」
「まぁええけど。暑さでやられたんちゃうか?
ちょっと涼しい喫茶店でお茶しばこや」
そう言って、友人は笑いながら肩を軽く叩いた。
首を傾げながら、
「おぅ、そうするか」
と友人に返事をして歩き出そうとしたそのときだった。
耳元で、小さく囁くような声で
ありがとう……
思わず振り向く。
けれど、そこには誰もいない。
気のせいか、と軽く息を吐きながら視線を落とすと、
ズボンの裾に小さな汗じみのような濡れが残っていた。




