旅情の居酒屋で
土曜日の夕方、ふと思い立って車を走らせた。
行き先を決めていたわけじゃない。
ただ、東の海沿いがいい気がして、気分のままにハンドルを切った。
着いたのは、古い町並みがそのまま残る観光地だった。
石畳を踏むたびに、どこか懐かしいような音がする。
観光客の姿はまばらで、夜の空気はひんやりして気持ちがいい。
土産物屋に入った瞬間、ぐぅ、と腹が鳴った。
店のおばちゃんが笑いながら「兄さん観光かい?」と声をかけてくる。
「はい、そうです」
照れながら答えると、おばちゃんは
「若いのに珍しいわねぇ」と笑った。
「いやいや、いい写真撮れましたよ。こんなに綺麗な街並み、なかなか残ってないですし」
そう言うと、おばちゃんは嬉しそうに目を細めた。
「若い人で、そんなふうに言ってくれるの珍しいわぁ」
ふと思い出して、地元の人しか行かない店を聞いてみると、奥からおじさんがつっかけを鳴らして出てきた。
「おぅ兄ちゃん、渋いリクエストやな」
肩をぽんぽん叩きながら、店の外へ案内される。
「そこの大通りを二つ越えたとこに、細い路地があるんや。その先に赤い暖簾の店がある。地元のやつしか行かん店や」
そう言って笑いながら店に戻っていった。
礼を言って土産を買い、車に荷物を置いてから、教えてもらった路地へ向かう。
初めての街で、地元民しか行かない店。
その響きだけで胸が少し高鳴る。
大通りの喧騒が遠のき、細い路地に足を踏み入れた瞬間、空気がひんやりと変わった。
少し歩くと、教えてもらった通り、赤い暖簾のかかった渋い店があった。
カラカラと引き戸を開けて、
「一人なんですが大丈夫ですか」
と声をかけると、女将さんが
「大丈夫ですよ、こちらへどうぞ」
と笑って案内してくれた。
店内は、時代劇に出てきそうな落ち着いた雰囲気で、
出汁の香りがふわりと漂っている。
ここは当たりだな、と心の中でほくそ笑みながらカウンターに座る。
烏龍茶を頼むと、隣の年配の男性が笑いながら声をかけてきた。
「おぅ、兄ちゃん、呑まねえのか」
「えぇ、今日は車でして」
「かぁ、最近の若けぇのはすぐ呑まねぇって言いやがる」
そう言いながら、徳利から手酌で酒を注いでいる。
女将さんが
「他のお客さんにあんまり絡まないでくださいね」
と軽く注意していた。
一人旅だし、少し絡まれるくらいならいいかと思っていると、彼が不意にこちらを見てきた。
「兄ちゃんは、どっから来たんや」
「西の方から来ましたよ」
そう答えると、彼はケラケラ笑いながら背中を軽く叩いてくる。
「おもろいな、兄ちゃん。ここは地元のやつしか来んけど、誰に教えてもらったんや」
「土産物屋さんのご主人に」
そう言うと、女将さんが少し驚いたように眉を上げた。
「最近はあまり店の方には顔を出してないはずなのに今日はいらしたんですね」
へぇ、と返した瞬間、隣の彼の方からふわりと甘い沈丁花の花のような香りがした。
香水か?
そう思って彼を見るが、香水をつけるような雰囲気ではない。
料理はどれも美味しく、地元の名物を楽しみながら、彼の話に適当に相槌を返していた。
するとまた、不意に強い甘い香りが鼻をくすぐった。
ぽつりと「香水かな」と声に出してしまった。
その瞬間だった。
それまで笑いながら絡んできていた彼の顔から、すっと表情が抜け落ち能面のように消えた。
無言のまま、じっとこちらを見ている。
えっ、
と思ったところで、女将さんが静かに声をかけた。
「今日はそろそろお帰りですか?」
「……そうするわ。兄ちゃんもまたな」
そう言って会計を済ませ、帰る間際、背後を通るときに小さく呟いた。
「……とられてたまるか」
えっ、と振り返ろうとした瞬間、女将さんがこちらに向き直り、
「気にしないでください。少し変わった方なので」
とだけ言った。




