芯のない香り1
仕事が思いのほか早く片付き、久しぶりに定時で帰れることになった。
「お疲れ様でした」「気をつけて帰りなよ」「お疲れ〜」
上司や同僚の声を背中で受けながら、更衣室へ向かう足取りは自然と軽くなる。
外に出ると、風が頬を切るように冷たかった。
思わず肩をすくめ、首元のネックウォーマーを指先で少し持ち上げる。
そのままポケットから オープンイヤーの無線イヤホンを取り出し、耳に掛けた。
耳を塞がないタイプだから、外の冷たい空気の流れも、靴音も、全部そのまま聞こえる。
それがなんとなく心地よかった。
更衣室に入ると、暖房の効いた空気がふわっと身体にまとわりつき、冷えた指先がじんわりと解けていく。
制服を脱ぎ、私服に袖を通す。
布の質感が変わるだけで、仕事のスイッチが完全に切れた気がした。
ネックウォーマーを鼻のあたりまで引き上げ、イヤホンから流れる音楽のボリュームを少し上げる。
そのまま駅へ向かって歩き出す。
街灯の下を通るたび、足元の影がゆっくり伸びたり縮んだりする。
駅に着くと、ちょうど電車がホームに滑り込んできた。
「今日は本当にツイてるな」
そんな独り言が自然に漏れる。
乗り込んでドアに背を預け、音楽に意識を預けた瞬間ふと気付く。
お香のような、落ち着いた甘さを含んだ香りが漂っていた。
冬の帰宅ラッシュの空気とはまるで違う、柔らかくて、どこか懐かしい匂いだった。
思わず、どこから香ってきたのか気になって周りをキョロキョロと見回した。
だが、特に心当たりはない。
視界に入るのはスーツ姿の男性ばかりで、香水をつけていそうな雰囲気の人も見当たらない。
お香のような、落ち着いた甘さを含んだ香りは、ふわりと漂ってはすぐに薄れる。
誰かが持ち歩いているにしては、香りの“芯”がどこにもない。
電車の空調に乗って流れてきたのか、それとも自分の服にでも移ったのか、そんなことを考えながら、もう一度そっと鼻を鳴らした。
確かに、さっきより少しだけ強い。




