温泉で5
「兄ちゃん、昼飯はここで食うんか?」
湯に浸かってぼんやりしていたところに声が飛んできて、少しだけ意識が現実に戻る。
「えぇ、この中の施設か、せっかくなら温泉街で食おうかと思ってます」
そう答えると、おじさんは目尻を下げて本当に嬉しそうに笑った。
「おっ、嬉しいねぇ。地元で食ってくれるのはありがたいわ」
湯気の向こうで、笑い皺が深く刻まれている。
「兄ちゃん、飯食うならよ。ここも悪くねぇけど、ここ出て大きい道路からちょっと奥に行ったとこに、ロッジみたいな建物があるんだわ。そこの蕎麦屋、うめぇぞ。 一回行ってみなよ。まあ、蕎麦が好きならだけどよ」
蕎麦は好物のひとつだ。
その言葉を聞いた瞬間、胃の奥がふっと反応する。
「蕎麦好きなんで、この後行ってみます。
いい情報ありがとうございます」
そう笑って返すと、おじさんも満足そうに頷いた。
湯に長く浸かりすぎたせいか、額のあたりがじんわり熱くなってきたので、そろそろ上がることにする。
「お先です」と声をかけると、
おじさんは湯の中から手をひらひら振りながら、
「おぅ、また浸かりにおいでや〜」
と、ゆるい声で送り出してくれた。
湯船から上がると、冷たい空気が火照った肌にまとわりついて気持ちいい。
タオルで軽く体を拭きながら脱衣所へ向かう。
脱衣所の空気はほんのり暖かく、ドライヤーの低い唸りが一定のリズムで響いている。
ロッカーの前で体をしっかり拭き、髪を乾かすと、ようやく頭の中までスッと軽くなった。
ロッカーの鍵を手に取り、湯上がり特有のふわっとした足取りで受付へ向かう。
湯気の匂いがまだ肌に残っていて、外の冷気に触れる前の、あの独特の“余韻”が心地よかった。
受付で鍵を返しながら「いいお湯でした」と言うと、
「ありがとうございます。今日はおひとりだったので貸切状態でしたね」
と、にこやかに言われた。
一瞬、耳がうまく働かなかった気がした。
「えっ?俺以外にも入られてますよね?」
思わず聞き返すと、受付の人はロッカーの鍵をひとつひとつ確認しながら首をかしげた。
「いえ、鍵が全部そろってますので……
お客様だけのはずですが?」
その言葉が、湯上がりでまだ火照っていた体にひやりと落ちてくる。
「そうですか」
それ以上何も言えず、軽く会釈して施設を出た。
外の空気は相変わらず冷たく、さっきまでの湯気の余韻が一気に引いていく。
雪が静かに降り続けていて、音が吸い込まれるような静けさがあった。
……あの人は、一体誰なんだろう。
湯船の中で話した声、
湯気の向こうで笑った顔、
手を振ってくれた仕草。
全部、確かに“そこにいた”はずなのに。
胸の奥に小さなざらつきが残ったまま、車に乗り込み、教えてもらった蕎麦屋を目指してゆっくり走り出した。




