深夜の時間に
長期休暇の深夜、生活習慣はすっかり夜型に傾いていた。
コーヒーを片手に机に座ると、テレビでは作業用BGM代わりの怪談朗読が淡々と流れている。
普段は通勤のバスや電車、会社の休憩時間など、明るい場所でしか書いていなかった。
家で書くのは珍しくて、少しだけ胸が高鳴る。
「今日はどれを書こうか」
そう思いながらコーヒーをすする。
深夜の静けさは、昼間とはまるで違う。
外の音がほとんどしないせいか、タブレットから流れるラップバトルのフローがやけに鮮明に聞こえる。
部屋の空気はひんやりしていて、コーヒーの湯気だけがゆっくりと立ちのぼる。
机の上には、書きかけのメモ帳やペン、読みかけの文庫本が散らばっていた。
休暇に入ってから片付ける気力も薄れ、雑然としたままだ。
でも、こういう乱れた感じも悪くない。
「さて、どれから手をつけようかな」
独り言のように呟きながらメモ帳をめくる。
昼間に思いついたタイトルや断片的なアイデアが並んでいる。
深夜の空気のせいか、どのメモも昼間とは違う表情に見えた。
コーヒーをもう一口飲んで椅子にもたれる。
夜更かしのせいで頭は少しぼんやりしているが、そのぼんやり具合が逆に心地いい。
「まぁ、焦らなくてもいいか」
そう思って息を吐くと、何も書けない時間がじわじわと過ぎていく。
コーヒーはぬるくなり、テレビの朗読だけが淡々と時間を刻む。
メモ帳を眺めていると、端に小さく書かれた一文が目に入った。
ずいぶん前に人から聞いた話の断片だ。
「……そうだ、これ書いてなかったな」
聞いてから長いこと経ってしまったし、そろそろ形にしないと教えてくれた人にも申し訳ない。
よし、と息を整えてメモ帳を開き直す。
まずは時系列を思い出しながら箇条書きにしていく。
・最初に聞いた場所
・相手の表情
・話の入り口になった出来事
・途中で出てきた地名
・細かい状況説明
・最後に言っていた一言
書きながら、記憶が少しずつ戻ってくる。
深夜の静けさの中で、箇条書きが淡々と増えていく。
一度書き始めると、文章はスラスラと進んだ。
場所の名前などは聞いたまま書き、あとで消すのがいつもの流れだ。
カタカタとキーボードが調子よく鳴り、一気に書き上がる。
書き終えた文章を、いつものように読み上げる。
声にすると、変な文章や意味の通らない部分が分かりやすい。
その日も、場所を隠さずに書いたまま、頭から静かに朗読を始めた。
時計を見ると、深夜もだいぶ深い。
できるだけ声量を落として、ごにょごにょと喋るように読み進める。
そして、ある段落に差し掛かったときだった。
カツッ。
窓の外から、爪で軽く叩くような音がした。
一瞬、読み上げる声が止まる。
二階の部屋で、ベランダもない。
外から叩ける場所じゃない。
「……風か?」
そう思って続きを読もうとした瞬間。
カツッ、カツッ。
今度は、さっきより少しだけ近い。
窓の“外側”というより、ガラスの“向こう側”の、もっと手前。
壁の内側に響いたような、妙な位置の音。
思わず読み上げていた単語を確認し、その周辺の文章にマーカーで印をつける。
だが、そこは固有名詞でも地名でもない。
ただの説明文の途中だった。
「……なんでここなんだ?」
聞いたときは何も起きなかったのに、文章にして、声に出した途端にこれだ。
試しに、その段落だけもう一度読み上げてみる。
カツッ。
今度は、机の脚のあたりから聞こえた。
窓でも壁でもない。
“部屋の中”に移動してきたような、そんな位置。
背筋がぞわっとした。
「怪談書いてると、たまに変なもん寄ってくるんかもな」
そう笑ってみせたが、声が少しだけ震えていたのは自分でも分かった。
異変が起きた部分を少し削り、文章を整えて保存ボタンを押す。
パソコンを閉じ、布団に潜り込む。
部屋の電気を消した瞬間、さっきの“カツッ”という音が、今度は枕元のすぐ横で一度だけ鳴った。
けれど、もう確認する気にはなれなかった。




