喫茶店にて9
友人は、指先を落ち着きなく動かしながら続けた。
「実はな、記憶はしっかりしてたねん……」
その言い方が妙に重くて、俺は自然と姿勢を正した。
「……あの日、廃ラブホに入って甘い匂いがして、例の落書き見てたらな。奥の部屋から足音みたいな音がしてよ」
「足音?」
「そう。で、こら面白いこと起こっとるやん、って思ってもうてな。カメラ持って突撃したんや。それが結果的には間違いやったんやけどな…」
「おいおい、お前それは無謀やろ?」
「せやねんな。でもな、そん時は妙に怖さが消えてたんや」
その“怖さが消える”という言葉が、妙に引っかかる。
「ほんで?」
促すと、友人は少しだけ息を吸って続けた。
「そしたらな、音のした部屋にはなんもなかったんや。けど、扉がバンッて音がして閉まってもうてよ」
「……は?」
「俺も“は?”やったわ。 慌てて扉に駆け寄って開けようとするねんけど、開けへんねん。鍵かかってる感じでもなくて、ただ、びくともせん」
その時のことを思い出したのか、友人の指先がわずかに震えた。
「そしたらな…… 部屋の奥から、女の声で子守唄みたいな歌が聞こえて来てよ」
喫茶店の空気が、一瞬だけ静まり返ったように感じた。
「こらあかんわ、って思ってな。
扉蹴破れんか?って思って、
思いっきり蹴り破ったんや」
「おいおい、ワイルドすぎるやろ?」
「それくらい必死やったんや。
で、廊下に出たんや」
そこまで言って、友人はコーヒーを一口飲んだ。
けれど、味なんて分かってなさそうな顔だった。
廊下に出た“その後”を、まだ言っていない。
言わないまま、言葉が止まっている。
まるで、その先を思い出すのをためらっているように。




