九. 人はその道を知らず
「大気よ、震え響け、集い貫け——衝波」
ミレイアステルの漆黒のワンドから放たれた衝撃波が、唸りをあげて走り抜ける。
だが、フラクトルの前に広がった薄い光の膜にぶつかると、衝撃波は乾いた土を巻き上げながら散っていき、彼女の藍色のローブをはためかせることしかできなかった。
ミレイアステルの魔法にあわせて、フィデリアが走り出していた。その手足に光輪はなかったが、両手には黒い短剣が握られている。
「白き光、来たれ、矢となり、彼の者を貫け——光矢!」
フラクトルの背後から白いローブ姿の少女——プエラが姿を現し、距離をとりながら灰色の鈴を突き出した。
その頭上に浮かび上がった輝く矢は、フラクトルに向かうフィデリアへと迫った。
「……!」
だが、フィデリアは片足で地面を強く蹴り、急激に進路を変えて光矢をかわすと、そのままプエラへ向かった。
詠唱が間に合わないと悟ると、プエラは距離を取ろうとするが、速度を上げたフィデリアが間合いを詰めていく。
「我が相棒、牙を見せろ、触れしものを、ぶっ壊せ」
そこへ、横合いからフラクトルの詠唱が聞こえてきた。
「——砕け散る牙」
フラクトルが手にした白く磨き上げられた骨製の槌、その先端に赤い光がまといつくのを見て、フィデリアの唇からも咄嗟に詠唱が流れ出す。
「理の律、結び煌めけ、この身を巡り、制約を貫け——駆けめぐる星環!」
フラクトルが両手で振り上げた槌を、フィデリアへ叩きつけると、凄まじい音とともに地面が砕け、土砂が石の破片を巻き込んで吹き上がった。
だが、その場所にフィデリアの姿はなかった。
「おい、訓練で固有魔法を使うなと言ってるだろう」
フィデリアの声はフラクトルのすぐ後ろから聞こえてきた。光輪をまとった手から伸びた黒い短剣が、槌を振り下ろしたままのフラクトルの首筋に触れている。
「……あんただって、使ってるじゃない」
「使わなかったら、今ごろどうなってたと思うんだよ」
フィデリアが短剣を収めて魔法を解くと、フラクトルは不満そうに唇を尖らせた。ミレイアステルもワンドを下ろし、二人のもとへ歩いてくる。
「朝から元気だね。さっきの音は君たちだったのか」
屋敷の角から姿を見せたのは、旅の荷を肩にかけたハウラとイマーゴだった。崩れた地面へ目を向けたハウラは、フラクトルに困ったような笑顔を向ける。
「フラクトル、傷はもう痛まないのかい?」
「……うん、昨日から普通に動けてる」
「それは良かった。でも、あまり無茶はしないでくれよ」
ハウラの隣へ歩いてきたイマーゴにも、もう足を庇う様子はない。工房から戻ったばかりの頃、歩くにもハウラの手を借りていた姿がまだ記憶に新しかった。
「もうしばらく休ませてくれてもいいのにさ」
「足のことなら、もう大丈夫よ。いつまでも休んでいられないわ」
「怪我の具合は僕も見ている。心配ないよ、フィデリア」
ハウラは歩み寄ると、なだめるようにフィデリアの肩を叩いた。フィデリアはその手に自分の手を重ねたが、先日の工房での出来事が脳裏を離れなかった。
「……私たちが代われればよかったのに」
ミレイアステルがつぶやくと、イマーゴはその髪を優しく撫でた。
本当の家族を知らず、ここで身を寄せ合って生きてきた赤杯にとって、ハウラやイマーゴの優しさと慈しみは何よりの救いだった。
「ふふ、ありがとう。でも、あなたたちには別の役割があるわ」
自分たちより長くこの仕事をしてきた黒鍵が過去を語ることはない。どんなときも辛さを見せず、ともに過ごす赤杯や白燭を気にかけてくれる。
無理はしないでと口にしたところで、自分たちに選択の権利がないことは、互いによく分かっていた。
「私たちのことは心配しないで大丈夫だよ」
それならば、自分たちがより力をつけ、多くの仕事をこなせるようになればいい。それがここでの互いを支える唯一の方法だった。
「頼もしいね」
フィデリアの言葉にハウラが笑うと、その横で槌を抱えていたフラクトルが、何かを言いかけて口を閉じた。さっきまでの不満げな顔は消え、黒髪に隠れた横顔を見ていたプエラが、そっと袖を引く。
フラクトルは槌を足元へ下ろしてイマーゴへ向き直ると、小さく咳払いした。
「この前は、その……悪かったわ。あたしのせいで、怪我までさせちゃって」
「謝る必要はないわ。あなたが無事で良かった」
そう言われても顔をあげない相棒の隣へ、プエラも進み出た。
「フラクトルを助けてくれて、本当にありがとう。えっと、お礼を言うのが遅くなっちゃってごめんなさい」
「分かってる。二人とも頑張ったわ」
イマーゴが手を広げると、二人はようやく嬉しそうに微笑みを浮かべ、その腕に抱き締められた。
「まったく……。ちゃんと反省してくれよ」
ため息まじりのフィデリアの声に、プエラがイマーゴの腕の中から顔を出して、小さく舌を出す。
「こいつ!」
「あんたに言われたくないわよ」
「こら、プエラ。フィデリアたちが来てくれなかったら、僕たちも危なかったんだ」
「……だって」
イマーゴを挟んでやりあう姿を見て、ハウラが肩をすくめた。
「僕たちはもうすぐ出発だ。赤杯も白燭も、喧嘩せずにいてくれよ」
* * *
フィデリアたちが、馬上の人となったハウラたちに手を振り、その姿を見送っていると、背後からアディウトルに呼び止められた。
「間もなくノヴェリス様がお出でになる。赤杯の二人は呼ばれるまで待機していろ」
「ノヴェリス様が?」
ノヴェリスは灰の手を束ねている人物で、複数の村や小都市を含む所領を有する地方貴族だ。
灰の手と同じような組織を、各所に抱えていて、フィデリアたちも、他の組織と連携しての仕事を経験していた。
しかし、ノヴェリス本人がこの屋敷を訪れるのは珍しい。仕事はたいていアディウトルを通して伝えられ、報告も彼を通している。
フィデリアたちが互いに顔を見合わせる中、アディウトルは「失礼のないように身支度を整えろ」と言い置き、再び屋敷に戻っていった。
「ノヴェリス様がいらっしゃるだなんて、大きな仕事かしら」
「そうだな。また他の地域の組織と合同での仕事かも」
「なんで赤杯を指名? あたしたちだってできるのに」
話を聞いていたフラクトルが、苛立ちを隠さずに足を踏み鳴らす。
「焦る気持ちは分かるけど、フラクトルはまだ本調子じゃないだろう」
「フラクトル、無理はしないで。あんなに酷い怪我だったんだから……。フラクトルに何かあったら、プエラは嫌だよ」
「……くそっ! しばらくはマズい飯のままか」
「それくらいの罰ですんだのも、ハウラたちが庇ってくれたからよ。これ以上心配かけないようにしないと」
ミレイアステルにも宥められると、フラクトルはようやく小さく頷き、プエラとともに屋敷へと戻っていった。
「困ったやつだな。焦りは禁物だって、あれほど言ってるのに」
「仕方ないわ。あの子たちはまだ幼いもの……」
「とにかく私たちは準備しよう。すぐに出発ってことはないと思うけど」
「あなた寝癖がついたままだし、部屋に戻って身だしなみを整えましょう」
アディウトルがフィデリアたちの部屋を訪れたのは、それからしばらくしてのことだった。
三人が向かったのは屋敷の奥にある、ひと際重厚な扉がしつらえられた部屋で、普段は滅多に使われることがない。
「ノヴェリス様、二人を連れてきました」
アディウトルの呼びかけに、ノヴェリスは椅子に腰を下ろしたまま視線を向けた。
上質な毛織の長衣に身を包み、白髪混じりの金髪は丁寧に手入れされている。その青い目がフィデリアからミレイアステルへと移った。
「——久しいな。君たちの仕事ぶりはいつも聞いてるよ」
ノヴェリスの向かいには無骨な風貌の人物が座っている。
金糸をあしらった豪奢なマントを羽織り、退役した傭兵を思わせる雰囲気を醸し出していた。
「フォルティス殿、こちらが同行させていただく二人で、まだ若いが腕は確かだ」
フォルティスと呼ばれた男は、鷹揚に頷くとのっそりと立ち上がり、フィデリアたちのほうへ歩み寄り、手を差し出した。
「よろしくな」
この世界の魔法使いで、フォルティスの名を知らぬものはおそらくいない。
当代最強の魔法使い。
あらゆる魔法を使いこなす稀代の天才。
しかし、様々な呼び名で称賛され、数々の逸話を持つ一方で、悪い噂話も後を絶たなかった。
貴重な魔法触媒を違法に取引している、あるいは魔法そのものを奪っているという、まことしやかな話は、誰もが一度は耳にしたことがあった。
フィデリアたちは、差し出された手を握りながら、自分たちの仕事のうちいくつかは、このフォルティスのために行われていたのだろうと考えた。そうであれば、聞いていた噂にも真実が含まれているのかもしれない。
「赤杯の二人には、フォルティス殿の護衛についてもらう」
「護衛ですか?」
「そうだ。フォルティス殿のことはお前たちも知っているだろうが、道中の危険を払い、無事に目的を果たす手伝いをしてもらう」
最強と呼ばれるフォルティスに、果たして護衛の必要があるのか不思議ではあった。それほどの危険が伴うのか、もしくは人手が必要なのか。
「あの、目的地はどこなのですか?」
「北西の山間に、ある一族の住む郷がある。馬で五日ほどの距離だ。フォルティス殿はそこを訪れ、一族が持つ古い記録を見に行く」
フォルティスはノヴェリスの言葉に頷くと、フィデリア、次いでミレイアステルの肩を鷹揚に叩いた。
「よろしく頼むぞ。私はこれから近くの街で準備をする。お前たちは後から宿に来てくれ」
言い終えると、フォルティスは小さな声でノヴェリスに何ごとか言葉をかけ、扉から出ていった。
「フィデリア、ミレイアステル、細かなことはアディウトルから聞いておけ。それから——」
ノヴェリスはテーブルに置かれたグラスを手に取ると、残っていたワインに口をつけた。
「フォルティス殿は大事な顧客だ。失敗は許されない」




