十. 険しき道こそ近し
王都から南西に位置するカルディナの街外れでは、朝になっても家々の屋根に霜が残っていた。細い通りの向こうから荷車の軋む音が聞こえ、窓を開けると、インダリオの頬に冷たい空気が触れた。
水差しの水で顔を洗い、パンとチーズで朝食を済ませる。ひとりで暮らすこの家には、食事の支度をする者も、帰りを待つ者もいなかった。仕事で留守にすることも多く、身の回りのものは必要なだけあれば足りると考えていたが、朝の静かな時間は嫌いではなかった。
昨夜のうちにまとめた書類に目を通していると、窓から差し込む光が、次第に紙の上へ広がってくる。調べて分かった事柄と、まだ確かめていない推測が、同じように書かれてはいないか。ひと通り見直してから、インダリオは書類をまとめ、外出用のローブを羽織った。
首都とモエニアを結ぶ街道沿いにあるカルディナには、毎日、旅人や荷を運ぶ商人が出入りしている。通りへ出れば、すでに店の戸が開き始め、馬を引く者が、道の端に積まれた薪を避けながら歩いていた。
街の中央へ向かうにつれ、人々の声も増えていく。店先から挨拶を送る顔には、仕事で話を聞いたことのある者もいた。
人の集まる通りを抜けると、石造りの堅牢な建物が見えてきた。
『世界魔法統括評議会』
通称『評議会』と呼ばれるその組織は、魔法に関する国際的な法や規則を定め、違法な魔法触媒の取引や、魔法を使った犯罪を取り締まっている。
建物は評議会の『ラウダ南西支部』で、入口には杖と天秤を形どった紋章が掲げられている。まだ朝早い時間にも関わらず、門のそばで馬を繋ぐ者や、書類を抱えて中へ急ぐ者の姿があった。
インダリオも門番に挨拶を返し、建物の中へと進んでいく。
「おはよう」
執務室では、すでに何人かの同僚が、前の日から続く仕事に取りかかっていた。インダリオも自分の席につくと、机の中央に伏せられた小さな紙片に気づいた。
裏返してみれば、そこには見慣れた筆跡で、到着したら部屋へ来るように、と書かれている。
呼び出しは珍しくないが、朝からこうして書き置きを残してあるところをみると、急ぎの案件なのかもしれない。
インダリオは近くの同僚にしばらく席を外すことを伝えると、そのまま奥の部屋へと向かった。
「インダリオです」
扉をノックして名乗ると、中からすぐに返事が返ってきた。
「おお、入れ」
扉を開けると、恰幅のよい白髭の老人が、机の向こうから顔を上げた。朝の光を受けた室内には、開いた帳面や紙束がいくつも置かれている。
「お呼びでしょうか、アウルス様」
「インダリオ、朝からすまんな。まあ、座ってくれ」
老人——アウルスが椅子を勧めると、インダリオは向かいに腰を下ろした。
「先日、北方の小さな町で手入れがあった」
「はい、話は聞いています。捕らえた者の取り調べが続いていると」
「そうだ。——そのアジトから見つかった書面に、非常に興味深いものがあってな」
アウルスは手元に置いていた紙束を引き寄せ、目の前に広げた。記された取引を目で追い、その相手を確かめると、インダリオは顔を上げた。
「この名前は……」
「奴が使っている偽名のひとつに間違いない。数年前から、何度も違法な魔法触媒を買い取っているようだ。むろん、この書面だけで本人の関与を断定はできん。だが、本部もこの件を放ってはおけんと判断した」
アウルスは評議会の上級監査官であり、同時にこの支部の実質的な責任者でもある。
インダリオが捜査官として加わる遥か以前から、アウルスはその人物を追っていた。非合法な取引に関与している噂が絶えないものの、これまで決定的な証拠が掴めずにいる。
「連絡を受け、儂も取り調べに加わった。なかなか口を割らなかったが、ようやくやつの動きが分かったのだ」
「動きとは、どのような?」
「やつの表向きの動きは常に我々が監視している。しかし、今回掴んだのは、それとは別。今まで影すら踏めなかったものだ」
「アウルス様、では、いよいよ——」
「……いや、まだじゃ。本部の後押しがあるとはいえ、正規の手続きでは時間がかかる。だが、手をこまねいていては、また機会を失う」
評議会は、原則として各地の領主や都市当局と協力して活動するが、重大な魔法犯罪については、独自の強制権を持っていた。
だが、それはあくまで正規の手続きに則ったものに限られる。
インダリオは、アウルスが朝から自分を呼び出した理由を理解した。
「つまり、私にお任せいただけるということですね」
「……危険かもしれん。だが、この機会をなんとしても活かしたい。インダリオ、評議会の『剣』として、現地へ赴いてくれんか」
「はい、そのために私がいます」
インダリオは若くして、この支部の筆頭捜査官を務めていた。その彼を見出したのがアウルスであり、今ではその腹心として、独自の捜査を任されるまでになっていた。
「儂も準備が整い次第向かうが、正直間に合うとは思えん」
「お任せください。さっそく詳しい内容を伺えますか」
アウルスは別の書類を渡し、取り調べで分かったことを詳しく話し始めた。インダリオは行き先と調べるべき事柄を確かめ、現地での動き方についても手早く打ち合わせていく。
ひと通りの打ち合わせを終えると、アウルスが、ふと思い出したように問いかけた。
「そういえば、最近はインディクスのところへ行ったか?」
「いえ、しばらく伺っておりません。何かありましたか」
「いや、相変わらず研究にかかりきりらしくてな。たまには外へ連れ出してやらねば、ますます部屋にこもってしまう」
「ロクィアお嬢様もお元気でしょうかね。最近はインディクス様の研究を手伝っているとか」
「優秀な子だが、父親にそっくりじゃ。アンシラがいなければ、親子揃って食事まで忘れかねん」
魔法学の権威であるインディクス・ヴェリタスは、アウルスよりもずっと年下の実の弟で、カルディナの市街から馬で一日かかる郊外に家を構えている。
その職業柄、評議会の協力者として知恵を借りる機会も多く、インダリオもアウルスに連れられて何度もその居を訪れていた。
ヴェリタス家では、父娘の話が長引く間、侍女のアンシラが常にそばに控えていて、茶を淹れ、食事の支度に厨房へ向かい、戻ってきては主人たちに時間を知らせる風景がよく見られる。
インダリオの脳裏に、侍女の制服に身を包み、姿勢良く佇むアンシラの姿が思い浮かんだ。細い銀縁の眼鏡から覗く優しい目元、風に揺れる栗色の髪——。
「アンシラも、変わりないでしょうか。そういえば久しく会っていません」
「変わりないどころか、ますます忙しくしとるのではないか。あの家は彼女なしでは成り立たんからな」
そう言って笑うアウルスの顔は、普段の厳しい監査官ではなく、可愛い姪を思いやる好々爺を思わせる。
普段は、捜査の監督から地方領主との折衝までを取り仕切り、多くの魔法使いが恐れる存在なのだが。
「……久しぶりに会いたいものです」
インダリオの返事を聞いたアウルスは、白髭の下で口元を緩める。
「インディクスにか、ロクィアにか。それとも——」
「あ、いえ、無論インディクス様に。それとロクィアお嬢様にも」
咳払いして姿勢を正すインダリオを見て、アウルスは低く笑い声を漏らした。
「まあ、事が済んだらまた訪れるとしようではないか。ちょうどインディクスに相談したいこともある」
インダリオは頷くだけで何も答えず、手早く書類をまとめていく。どうにも、アウルスには余計なことまで知られている気がしてならない。
「それでは、急ぎ出発の準備に取りかかります」
「待て、インダリオ。先ほど言った通り、危険があるかもしれん。機会は逃したくないが、お主を失うつもりもない。——引く判断を忘れるなよ」




