八. 言葉の世界
「魔法はすべて言葉でできている——」
インディクス・ヴェリタスは、侍女が机の上に置いたカップに手を伸ばした。
「まあ、今さら君に言うことではないが」
机の上には、細かな文字や図を書きつけた紙が幾重にも広がり、その上に開いたままの本が無造作に置かれている。蓋の開いたインク壺のそばには、軸まで黒く汚れた羽根ペンが何本も転がっていた。
「規則に従った言葉を『世界に聞かせる』ことで成立する。そのように理解しております」
「その通りだ、アンシラ。——うん、おいしいお茶だ」
侍女用の揃いの服に身を包んだアンシラは、主人であるインディクスの言葉に軽く頭を下げて謝意を示した。
「良い蜂蜜が手に入りましたので、薄荷茶に合わせてみました。気分転換によろしいかと」
インディクスは、温かい茶をもうひと口飲むと、椅子から立ち上がって凝り固まった体をほぐした。
外から晩課を告げる鐘の音が響き、窓に目をやれば、早くも夕暮れが訪れようとしていた。
内陸に位置するこのあたりは、秋が深まるにつれて朝晩の冷え込みが目に見えて厳しくなっていく。日中にはまだ陽のぬくもりが残るものの、日が傾けば気温は急に落ち、夜明けには草や屋根を霜が白く覆う。
街道沿いの木々も次第に葉を落とし、遠くの山には早くも雪が見え始めていた。冬が平地まで降りてくるのも、そう遠くはない。
アンシラが、壁にかかった鉄製の燭台に火を灯していくと、柔らかな蜜蝋のあかりが室内を満たしていった。
「君は魔法をうまく扱うが、『魔力』とはなんだと考えている?」
主人に問われ、アンシラはどのように答えるべきか一瞬考えた。これはいつものように、自分への問いかけというよりは、インディクスが自身の考えを整理するためのものだと悟ると、なるべく客観的な回答をすることにした。
「魔法という現象を発生させるためのエネルギー源と表現されます。同じ魔法を扱うにも、消費する魔力の量は人によって異なりますが」
「そうだね。だからこそ、魔力量の多いものほど、大規模な高位の魔法を扱えるとされている」
「はい。魔力量は生まれ持った特性もございますが、訓練次第で増やすこともできると聞いております」
「定められた制御句と接語を、正しい手順で正確に発音する。そして魔法名で結ぶことで魔法は世界に受け入れられ、魔力が魔法となって発現する」
インディクスはアンシラの言葉に頷きながら、人差し指を宙に向けて伸ばした。
「小さき灯、集い、漂え——灯火」
魔法名が結ばれると、その指の先に小さな光の球が浮かび上がる。
インディクスはもう片方の人差し指も伸ばす。
「なるほど、確かに『世界』に言葉を伝えているという手順を踏んでいるように思える。しかし……小さき灯、集え——灯火」
再び光の球が浮かび上がったが、先ほどと比べると、球の大きさは小さく、光も不安定にまたたきを繰り返している。
「このように、一部を省略しても魔法の発現は可能なんだ」
どのような時も平常心でいることを心がけているアンシラだったが、目の前で見せられた現象に驚きを隠せなかった。
「ふふ、君のそんな顔は珍しい。短縮詠唱と名付けているが、私もまだうまく扱えない」
両手を口に当てて目を見開いたアンシラを見て、光の球を消したインディクスは満足そうな笑みを浮かべた。
「詠唱の一部を省略しても、魔法が成立するなど……。そんなことが」
「誰もが簡単にできることではないが、仕組みを理解さえすれば可能だ」
「仕組みとおっしゃるのは、接語や制御句のことでしょうか」
「少し違うな。先ほど話した『魔力』とは何かということだ」
アンシラはわずかに首を傾げた。詠唱の言葉を省くことと、魔力そのものの性質にどのような関わりがあるのか、まだ主人の考えを掴めずにいた。
「先ほどは言葉をひとつ省き、それでも灯りは生まれた。もし決まった音の並びだけが必要なら、何も起こらなくてもよさそうなものだろう?」
「もしや、言葉の意味そのものが重要だということでしょうか。……世界が言葉の意味を?」
「そう。私たちが人の話を聞くように、世界も言葉の意味を解釈しているのかもしれない。もっとも、あの灯りを見る限り、足りないところを正確に補ってくれるわけではなさそうだけれど」
インディクスは机に戻ると、積み重なった書類の中から一枚を抜き出した。いくつもの詠唱が細かな文字で書き付けられ、ところどころ線で消された語の脇に、別の語が添えられている。
「君はさっき、同じ魔法でも、使う人によって消費する魔力の量が違うと言ってただろ?」
「はい」
「同じ明るさの灯りを、同じだけの時間保つ。それだけのことでも、必要な魔力には差が出る」
「魔力を無駄なく使える言葉の組み方がある、ということでしょうか」
「それはあるだろうね。ただ私は、魔力というものが、果たして正確に『何に使われているか』を見直すべきじゃないかと考えている」
アンシラは傍らから、主人が手にした書類を覗き込んだ。さまざまな呪文の詠唱が並び、構成する制御句や接語がいくつも削られ、あるいは入れ替えられている。
机の上に散乱するメモや図表も、こうした研究の過程なのだろうか。
「私たちは詠唱して、光を生み出す。だから、魔力が光に変わったのだと考える。魔力を消費して現象そのものを生み出しているのだと。だが、もしも、世界が言葉を受け取り、その意味に従って、世界こそが現象を起こしているのなら……」
「——魔力は、そこへ言葉を届けるために使われているのかもしれない、と?」
アンシラの言葉に、インディクスは満足そうに深く頷くと、重い木製の肘掛け椅子に腰掛けた。
「その通り、君は実に優秀だ。魔力とは、世界に言葉を命令として受け入れさせるための媒介に過ぎず、消費する魔力の違いとは、命令の伝え方によるものかもしれない」
アンシラは壁の燭台へ目を向けた。炎の下では蜜蝋が溶け、細い筋を引いて流れている。魔法の灯りも、これと同じように、魔力を燃やして生まれるものだと思っていた。
「では、灯りはどこから来るのでしょうか」
「私の仮説としては、世界に元からあるものを使っているのではないかと考えている。そこにあるものを変化させているだけなのかもしれない」
「それが『世界が現象を起こす』ということであると?」
インディクスは、目の前に立つ侍女を見た。幼い頃に引き取ったこの娘は、特異な固有魔法を有していた。
家事に加えて、ひとり娘の世話まで器用にこなす一方で、聞き覚えで魔法学を理解し、こうして話に付き合ってくれる。
「私の研究は、君の固有魔法のおかげで大きく飛躍した。アンシラ、君の能力が、この世界の魔法理論に変革をもたらすかもしれない」




