五. 息あるかぎり
倉庫の奥には、木箱が幾段にも積まれ、壁際の板材との間に、二人がようやく身を横たえられる隙間があった。白いローブの裾を膝の上へ寄せたイマーゴがそこに座り、傷ついた足を投げ出している。高窓から差し込む光は木箱の上だけを照らし、その陰に伏せた顔には、肩までまっすぐに伸びた茶色の髪がかかっていた。
戸の隙間から外を窺うハウラの背には、白い髪を束ねた長い三つ編みが垂れていた。工房の建物のほうからは何度か人の声が聞こえ、足音が近づくたびに、彼女は身を低くしてやり過ごしている。
黒鍵の二人は、プエラたちを逃したあと、追ってきた魔法使いを何人か倒したものの、その中でイマーゴが足に傷を負ってしまった。
ハウラが見張りの隙を窺って盗み出した水と食料を口にして、しばしの休息を取ったあと、イマーゴがハウラに向かって手を伸ばした。
「そろそろ歩けると思うわ。少し手を貸してくれる?」
「気をつけて。ほら、僕の肩に掴まって」
ハウラに体を支えられながらゆっくりと立ち上がる。
傷のある足へ重みが移ると、一瞬ふらつきはしたものの、膝が折れることはなかった。
「……どうだい」
「ええ、昨日よりは歩けそうよ」
「まだ痛むかい?」
「少しは。でも、耐えられないほどじゃないわ。あなたこそ、ちゃんと休めたの?」
「僕は大丈夫。そろそろベッドで寝たいけどね」
イマーゴはハウラの肩から手を離すと、狭い倉庫の中を歩き、足の具合を確かめた。
ここに逃げ込んだ時には、立とうとするだけで顔を歪めていたのだから、随分とましにはなっているが、万が一の時に走り続けられるかどうかは分からない。
「人の気配はかなり少なくなったけど、安全に進めそうな経路があるか、それを確認したいね」
「私が様子を見てくるわ」
木箱へ背を預けたイマーゴが、左手の薬指にはめた指輪に触れる。
「影よ、徴よ、我が元に、立ちて踊れ——黒き徴の舞踏」
魔法名が結ばれると、足元に暗がりが広がり、そこから黒い人影が立ち上がった。
髪も、ローブの裾も、彼女によく似た形をしていたが、木箱の間から漏れる光を受けても、その顔に目鼻が浮かぶことはない。
ハウラが倉庫の脇にある小さな戸を開くと、影は細く開いた隙間を抜けて外へ出ていった。
「……工房の脇を通って、塀に沿えば裏の門に出られそう」
目を閉じたイマーゴに、影から伝わる周囲の感覚が流れ込んでくる。
「周囲の状況は? なるべく戦闘は避けたい」
「そうね、資材が積んであるところを抜ければ——」
言いかけたイマーゴが、急に目を開いた。
「ごめんなさい。戻る途中で見られたかもしれない」
「そうか。向こうは気づいたかな?」
「影はすぐに消したけど、もしかしたら、出てきた方向を見られたかも……」
外の様子に変わりはなく、すぐにこちらへ近づいてくる足音はなかったが、影の消えた痕跡を調べられれば、この倉庫にも手が回るかもしれない。
「見つかったらここは不利になるね。それなら、今のうちに行こう」
「待って。もう一度影を出すわ」
イマーゴが再び詠唱を行うと、今度は二つの影が木箱の間に立ち上がった。
「ひとつは先行させて、もうひとつは後ろを」
近くに人の気配がないことを確認して、ハウラがそっと戸口を開けると、まず影の一体が音もなく滑り出た。
「——周りには誰もいないわ、大丈夫よ」
「よし、行こう。イマーゴは僕の後ろに」
二人が外へ出ると、もうひとつの影が、遅れて戸口からついていく。
イマーゴが事前に確認した道をたどっていくと、小さな倉庫が見えてきた。隣には作業棟と思われる建物があり、その間には、荷車と縄で括られた材木の束が乱雑に並んでいる。
「そこを抜けましょう」
狭い道を進み、荷車の陰を抜けたところで、二人の前を行く影が立ち止まった。
「……誰かいるわ」
ハウラが息を潜めて様子を窺うと、作業棟の角に男がひとり立っている。
こちらには背を向けているが、角を曲がろうとすれば、そのすぐ脇を通らなければならない。
「ひとりみたいだ。ここは僕がやろう。少し待っていて」
荷車に身を隠したまま左手を持ち上げ、薬指の指輪を右手の指先でなぞる。
ハウラの女性にしては低い声が、詠唱の言葉を紡いでいく。
「極北の風、亡者の吐息、奪い尽くし、汝の糧に——白く痩せゆく灯」
魔法名が結ばれると、周囲に静かな冷気が広がっていった。
男は突然感じた寒さに首をすくめると、不審げな面持ちで襟元を引き寄せようとしたが、その手が上がりきる前に、背後に近づいたハウラの掌が首筋へ触れていた。
息を吸い込んだ口が開いたまま止まり、男の肩から背中へ、一瞬で霜が広がった。振り返ろうとしていた体は強張り、足だけを残して傾いていく。
「おっと。音を立てないでくれよ」
ハウラは倒れかけた男の体を支え、建物の陰へ横たえると、荷車に向けて手で合図を送った。
「もう少しよ。そこを曲がれば門があるはず」
再び前後を影に挟ませ、警戒しながら進み出すと、やがて資材置き場の向こうに塀が見えてきた。
「見えた、あれだね」
塀の切れ目にある門扉が半ば開き、外の道まで見通せている。
「……この先は見つかるかもしれない。イマーゴ、足は大丈夫?」
「問題ないわ。行きましょう」
* * *
影の一体を門に向けて進ませると、遠くから詠唱の声が聞こえてきた。
すぐに建物の角から男がひとり姿を現すと、さらにその後ろにも別の魔法使いの姿が見えた。
「イマーゴ、あっちの影はそのまま戦わせて。僕たちは向こうに」
「大気よ、震え響け、集い貫け——衝波」
イマーゴの意識から切り離された影は、彼女そっくりの声で詠唱を繰り返し、二人の魔法使いと魔法を撃ち合い始める。
その隙にハウラたちは建物の陰を伝って門へと急ぐが、戦闘の音を聞きつけて、周囲に人が集まってきていた。
「ハウラ、後ろから!」
その瞬間、背後から放たれた炎が、二人の後ろをついてきていた影の体を貫いた。
振り向くと、炎を放った魔法使いが、さらに次の詠唱を始めようとしていた。
「我が声に応え、集い……」
「——白く痩せゆく灯」
周囲に強烈な冷気が一気に広がり、二人に向かって放たれた炎は、急速に勢いを失い消えていく。
ハウラが腕を振るうと、冷気はさらに威力を高め、見る間に地面を白く凍らせていった。
冷気を浴びた魔法使いは、掌を向けたまま身を縮め、詠唱を続けることはできなかった。
ハウラは白く曇る息を吐きながら、イマーゴの冷えた手を取り、門へ向けて引いた。
「——戦わせていたほうの影もやられたわ」
「わかった。もう少しだ、掴まって」
門の先には道があり、その向こうには木々が続いている。塀の外へ出さえすれば、あの木立の中へ身を隠せる。
しかし、あと数歩というところで、イマーゴの膝が崩れた。
ハウラは倒れかけた体を抱き止め、肩に回された腕を押さえて支え直すが、イマーゴは傷ついた足を浮かせ、もう片方の足でどうにか体を支えている。
「ごめんなさい……」
「いいから、さあ、僕に掴まって」
ようやく門にたどり着いたが、周囲には、さらに数を増やした魔法使いたちが迫ってきていた。
作業棟の角からも、資材置き場の脇からも、詠唱の声が重なる。
「下がって、イマーゴ!」
「ハウラ、ダメよ……」
イマーゴはハウラの長衣を掴み、痛む足を引きずりながら、その体を自分のほうへ引き寄せようとした。
その時、門の向こうに続く道の奥から、空気が激しく破裂する音が響いた。
二人のすぐ横を漆黒の雷が走り、詠唱を続けていた魔法使いたちの体を貫いていく。




