四. 猶予の中に危険あり
フラクトルの部屋から出てきたラヴィアは、使い終えた布を重ねた盆を抱えていた。布には血が黒く滲んでいたが、廊下で待っていたフィデリアとミレイアステルに向けた声は、いつもと変わらず落ち着いている。
「血は止まったよ。傷は浅くないから、しばらくは寝かせておかないとね。部屋に入ってもいいけど、起こさないようにしなよ」
「ありがとう、ラヴィア」
「それから、プエラにも少し休むように言っておくれ。あの子、着替えもしようとしないんだから」
ラヴィアと入れ替わりに部屋へ入ると、フラクトルは寝台に横たわり、肩まで掛布をかけられていた。枕に散った黒髪の間から覗く顔は白いが、口元からは静かな寝息が漏れている。
「ラヴィアが手当してくれたから大丈夫よ」
ミレイアステルが声をかけても、寝台の脇に椅子を寄せたプエラは、両手で包んだフラクトルの手を離そうとしない。
「なあプエラ、ハウラたちはどうしたんだ。一緒じゃなかったのか?」
「——黒鍵の二人はまだ工房にいる」
「向こうはどうなってるんだ? 黒鍵は二人とも無事なのか?」
「イマーゴはたぶん怪我してた。だけど、ハウラがついてるでしょ」
フィデリアは、寝台に横たわるフラクトルへ目を向けた。傷ついた相棒を心配するプエラの気持ちはよく分かる。しかし、まだ戻らぬ黒鍵の状況も気がかりだ。
「いったい何があったんだ? 頼む、きちんと説明してくれ」
「詳しいことは分からないよ。プエラはフラクトルを連れて帰るだけで精一杯だったんだ」
「二人がいる場所は安全なのか?」
「ねえ、うるさいよ。その話、今じゃなきゃ駄目なの?」
ようやくこちらを向いたプエラの青い目には、あからさまな不満が浮かんでいる。いつもなら多少の我儘も許してきたが、今は、寝台へ顔を戻そうとする彼女をそのままにしておく気にはなれなかった。
「今だから聞いてるんだ」
フラクトルを起こさぬよう声を落としたが、返す言葉は自分でも思ったよりきつく響いた。
「フラクトルが怪我してるのよ。どうしてハウラたちのことばっかり聞くのよ」
「ハウラたちは、お前たちを助けに行ったんだろ!」
「やめて、二人とも。……フラクトルが起きてしまうわ」
ミレイアステルが間に入ると、プエラはすぐに寝台へ顔を戻し、フィデリアも続けかけた言葉を呑み込んだ。
「話は広間でしましょう。その間、ラヴィアにいてもらうから」
フラクトルは静かな寝息を繰り返し、掛布の下で細い胸がゆっくりと上下している。
「……起きたら、すぐ呼んでくれる?」
「ええ。そう頼んでおくわ」
プエラは包んでいたフラクトルの手を掛布の中へ戻し、指先が布の下に隠れるまで見届けてから、ようやく椅子を離れた。
三人が広間へと場所を移すと、ほどなくして、襟付きの上着にガウンを羽織ったアディウトルが姿を見せ、視線をプエラへ向けた。
「何があったんだ。状況の報告を」
プエラは不貞腐れたように頬を膨らませながらも、任務での状況を話し出した。
「工房に強力な防御魔法がかかってたの……」
白燭に与えられていたのは、魔法触媒を扱う工房から、研究資料を奪う仕事だった。組織では人の出入りを調べ、工房が無人になる期間を選んで二人を送り込んでいる。
「手持ちの道具じゃ外せなかったから、一度戻ろうかって言ったんだけど、フラクトルが……」
「まさか、力技で壊したのか?」
「工房には誰もいないって話だったし。だから、すぐに回収しちゃえば大丈夫だと思ったのよ。でも、警報が鳴って、あっという間に魔法使いたちが集まってきて……」
「どうして戻らなかった。指示と違う状況なら報告するように言ってあるだろう」
「フラクトルはちゃんと壊せたんだよ。あんな罠があるなんて、聞いてなかったもん!」
プエラによれば、駆けつけた魔法使いたちは、白燭たちが追い払おうとしても引き下がらず、かといって二人を捕らえることもできなかった。
そして、そのまま互いの出方を窺ううちに時間だけが過ぎ、プエラたちは定期連絡を行う余裕もなかったという。
「ハウラたちと合流した後、一度戻って仕切り直そうって言われたの」
「どうして戻らなかったんだ」
「何も持たずに帰れないじゃない。フラクトルがせっかく防御魔法を壊して、こっちは四人になったのに。話し合いをしてるうちに、フラクトルが怒って突っ込んで行って……でも、待ち伏せしてた相手に撃たれたの……」
そこまで話すと、プエラの言葉が途切れた。フラクトルが傷ついた時のことを思い出したのか、その青い目が揺れている。
「それで先に二人だけ戻ってきたのか」
「うん。ハウラがフラクトルを助け出してくれて」
「イマーゴが怪我をしたというのは?」
フィデリアが部屋で聞いた話を持ち出すと、アディウトルの眉間に小さく皺が寄った。
「どういうことだ。それは本当か」
「……ちゃんと見たわけじゃない。戻る時に、戦いの音が聞こえてきて、その後にハウラがイマーゴの名前を呼んでた。だから、何かあったんだと思う」
アディウトルは口元に手を当て、卓の上へ視線を落とした。燭台の明かりが灰色の髪の片側を照らしていたが、伏せた目元には影がかかり、その表情は読み取りにくい。
「アディウトル、私たちが行く。ミレイ、いいよね?」
「そうね、私もそれがいいと思う。もしイマーゴが動けない状況なら、ハウラだけでは連れ帰れないかもしれない」
二人の声に、アディウトルは顔を上げたものの、すぐには返事がない。
よもや黒鍵の二人を見捨てるわけではあるまいが、フィデリアはその可能性を考えずにはいられなかった。
仕事を終えた自分たちを笑って迎え、怪我をすれば心配してくれる。あの二人に万が一何かあったら、そう考えるだけで頭の芯が冷えていく。
「そんなに心配しなくても、あの二人なら大丈夫でしょ。プエラたちを逃がしてくれたんだし、自分たちだって帰ってこられるよ」
プエラの気楽な言葉に、フィデリアは身を乗り出して言い返しかけたが、ミレイアステルが黙って首を振ったのを見て、ここでまた言い争っても出発が遅くなるだけだと思い直した。
ふっと小さく息を吐くと、プエラではなく、まだ返事をしないアディウトルへ向き直る。
「無事ならそれでいいさ。途中で会ったら、一緒に戻ってくるだけだ。アディウトル、もし黒鍵の二人に何かあったら灰の手にとって痛手だぞ」
アディウトルはようやく口元から手を下ろすと、その灰色の目をフィデリアたちに向けた。
「分かった。赤杯は工房へ向かえ。まずは黒鍵と合流し、二人の状態を確かめるんだ」
「合流したら、撤退でいいか?」
「——黒鍵が判断するだろう。お前たちはそれに従え」
「アディウトル、私たちも仕事の内容を知っておきたいわ」
「それがいいだろう。出る前に指示書に目を通しておき、可能なら目的のものを回収してこい」
フィデリアは手を打ち鳴らすと、ミレイアステルと顔を見合わせた。
「決まりだ。ミレイ、支度をしよう」




