三. 真の友は苦難のうちに
古い砦を中心に築かれた城塞都市モエニアは、川と街道が交わる土地に広がり、その周囲を高い石壁に囲まれている。かつて兵が詰めた砦はとうに役目を終え、いまは崩れかけた石垣だけを街の高みに残していたが、そこから延びる道と広場には、今も多くの人と荷が集まっていた。
一年で夜がもっとも長くなる日から三日間、モエニアでは冬至祭が開かれる。この先、川は凍り、道は雪に埋まり、蓄えを数えながら春を待つ季節が続く。だからこそ祭りの間だけは、街の者も、街道を越えて訪れた者も、薪と酒を惜しまなかった。
ミレイアステルとフィデリアが屋敷へ戻ってから数日が過ぎ、フィデリアの傷も癒え、疲れも抜けた二人は、連れ立って祭りに出向いていた。
「冬至祭に来るの久しぶりね」
「うん、毎年仕事だったからな」
街道の坂を下りきる頃には、西の空に残っていた赤みも城壁の向こうへ落ち、通りの灯りのほうが空よりも明るくなっていた。
城壁の門をくぐると、脂と麦の焦げる匂いが二人を迎える。
通りの先の広場では、薪が背丈より高く組み上げられて燃えており、火のまわりにはすでに人の輪が幾重にもできていた。誰かが歌いはじめれば、隣の輪がその歌を引き継ぎ、歌声は通りの向こうまで次々に渡っていく。
「すごい人ね」
「ミレイ、はぐれないようにつかまって」
ミレイアステルが頷いてフィデリアの腕にしがみつくと、二人は祭りの雑踏に足を踏み入れた。
通りの両側を隙間なく埋めた露店には、炙った肉や焼きたてのパン、毛織物や陶器、色石を使った細工物まで、さまざまなものが売られている。品を求めて足を止める者の背へ、広場へ急ぐ者が次々にぶつかり、押し返す声と笑い声とが混じり合っていく。人いきれに露店の炭火の熱まで加わって、城壁の外に満ちていた夜気の冷たさは、すっかり遠ざかっていた。
露店の列を抜けたあたりでようやく人の流れがゆるむと、ミレイアステルはフィデリアの腕を離し、ほっと息を吐いた。
「ミレイ、どこか行きたいところはある? 広場に行けば見せ物がやってるかもしれない。それか、何か食べてもいいし」
「私、服を見に行きたいの」
「服だなんて、珍しい。新しい服が欲しいの?」
「私のじゃなくて、フィデリアのよ」
ミレイアステルの視線を追って、フィデリアは自分の格好を見下ろした。この季節に街を歩くにしては適していない、半袖の短衣と膝丈の巻きスカート、そこから覗く手足に冷たい風が吹き付けている。
「知ってるだろ? 私はこれでいいんだよ。いざという時、魔法の邪魔になるからさ」
「それは仕事のときの話でしょう。今日みたいな日に着ればいいわ」
ミレイアステルは、フィデリアの返事を待たず、その手を取って通りの奥へと進み出す。
やがて小さな商店が立ち並ぶ通りに出ると、軒先に服を吊るした店を三軒覗き、四軒目でようやく足を止めた。
「ここが良さそうよ、入ってみましょう」
壁の一面に反物と仕立て上がりの品が掛かり、店の奥では女将が炭を熾している。
「いらっしゃい! 何でも揃ってるよ!」
ミレイアステルは吊られたものを端から手に取り、生地を指で挟み、裏を返し、厚みを確かめては次へ移っていった。
「ねえ、フィデリア、こっちのやつ着てみて」
差し出されたのは、厚手の毛織のズボンと、腰までの丈の外套だった。どちらも濃い藍色に染められ、外套の裏には風を通さないための別布が当ててある。
「これ、高いんじゃない?」
「いいから、ほら、早く!」
衝立の陰で着替えて出てきたフィデリアを、ミレイアステルは正面から見て頷くと、次に横へ回って袖を引いて長さを確かめた。
当のフィデリアは気恥ずかしそうに赤い髪を掻き回し、その視線は店の梁のあたりを彷徨っている。
「これが良さそうね、似合ってるわ」
「……ありがと、ミレイ」
新しい服に身を包んだフィデリアは、初めはぎこちない様子だったが、屋台で肉の串と、湯気の立つ豆の粥を買い、二人並んで立ったまま腹に収めた頃には、すっかり慣れてきた。
「袖があるって暖かいな」
「何を当たり前のことを言ってるのよ」
しげしげと袖を見つめながらつぶやいたフィデリアの言葉に、ミレイアステルがくつくつと声をあげて笑い出した。
二人は広場へ向かう人混みを避け、古い砦跡が残る街の高台に足を向けた。斜面を上がるにつれて歌も人声も遠ざかっていき、眼下には、街路の形をなぞるように、篝火の灯りが広がっていた。
「この景色を見ると、昔を思い出す」
石垣の縁に腰を下ろしたフィデリアは、両手を後ろについて、その火の散らばりを眺めている。
「昔って、私と会う前ってこと?」
「そう。祭りの間はさ、みんな油断してるから。高いところから眺めて、どこから食べ物をくすねられそうか見てた」
隣に腰掛けたミレイアステルは、フィデリアの言葉に小さく頷いただけで、言葉は返さなかった。
食べるものに困り、その日寝る場所を探し、ただひたすら自分の力で一日を生き延びる。ミレイアステル自身も、フィデリアと変わらない生活をしていた。
「フィデリアは、最初から魔法が使えたんでしょう?」
「使えてたって言っても、誰かが唱えてるのを聞き覚えて、真似しただけだよ。何度も失敗したけど、生きるためには必要だったから」
風がひとしきり吹き上げてきて、下の広場から歌が切れ切れに届き、また持っていかれる。膝を立てたフィデリアはその上へ顎を預け、風が額の髪を巻き上げていくのに任せている。
「私が来た頃には、もう上手に使えてたわ」
「半年あとだったかな、ミレイが来たのは。アディウトルが連れてきて、今日からお前の相棒だって」
その日の出来事は、ミレイアステルにも忘れられない記憶として刻まれている。
連れていかれた部屋の中には、赤い髪の娘がひとり、寝台の上に胡座をかいて座っていた。ミレイアステルは身を固くして入り口から動けなかったが、その娘は立ち上がると、寝台はどっちがいいかと、優しい声をかけてくれた。
その笑顔はぎこちなかったが、自分への気遣いに溢れていることは伝わってきた。
「私はむしろ、ミレイがあっという間に魔法を覚えたことに驚いたけど」
「お前たちは二人で一組だ。だから、二人とも強くなければいけないって言われたから」
ミレイアステルの言葉はそれきり続かなかったが、フィデリアも何も言わず、二人は並んだまま、眼下に広がる祭りの風景を眺めていた。
北からの風が強さを増すと、篝火の熱気から離れた高台には、底冷えの気配が漂ってくる。
「うう、だいぶ冷えてきた。下に戻ろうか」
石垣から腰を上げたフィデリアは、尻についた土を払い、座ったままの相棒へ手を差し出した。風に晒され続けた指先は、すっかり色を失っていた。
二人が斜面を下るにつれて、遠ざかっていた歌声と笑い声が再び近づいてくる。街路のあちらこちらで、これから深まる夜に備え、篝火がその数を増やしていた。高台から吹き下ろす風は路地を抜け、火を囲む者たちの髪や外套を煽りながら、巻き上げた火の粉を通りへ流していく。
ひときわ強い風が広場を抜けたのはその時だった。
風に煽られた篝火のいくつかから、鈍い音が響き渡っていく。
「危ない!」
「篝火が崩れるぞ!」
続けて強い風が吹き下ろすと、組んであった薪の山がいくつか、内側から崩れるように横倒しになった。
火のついた薪が石畳を転がって屋台の垂れ幕に触れると、炎は幕を舐めながら骨組みの上へ走り、隣り合う屋台へ次々に燃え広がっていく。
怒号と悲鳴とが重なり、慌てて火から遠ざかろうとする者と、何が起きたのか見ようとして近づく者とがぶつかり合い、行き場を求める人の波が、広場から通りへ雪崩れてくる。
フィデリアは押し寄せる人の波を見ると、ミレイアステルの肩を掴んで自分の後ろへ回し、壁沿いを伝って流れから抜け出そうとした。押し返されるたびに足の位置を取り直し、肘で隙間をこじ開け、ミレイアステルが転ばないよう腕で囲い込んで、少しずつ路地の口へ寄っていく。
その頭上をまた北風が渡っていき、崩れた篝火の残りが押され、燃えさしの薪とそれを支えていた鉄の籠が、屋台の骨組みごと二人の側へ倒れかかってくる。
「きゃあ!」
ミレイアステルの悲鳴とフィデリアが唇を開くのとは、ほとんど同時だった。
「ミレイ、掴まって!」
駆けめぐる星環を纏ったフィデリアは、ミレイアステルを抱き上げると、壁を蹴って屋根へ跳び移り、あっという間に混乱から抜け出していく。
人気のない裏通りまで来て、フィデリアはようやく足を止め、抱えていたミレイアステルを石畳へ下ろした。
振り返ると、炎が広がった広場では、梯子に登った魔法使いたちが放水を始めていた。いざという時のために、魔法使いたちが備えていたようだ。
「ミレイ、大丈夫、怪我はない?」
「……うん、私は大丈夫」
フィデリアがほっと息を吐くと、手足に浮かんだ棘の付いた光輪が薄れていく。
「あ、しまった、服が——」
ズボンの裾は左右とも輪の形に沿って裂け、切り口から糸が垂れ下がっている。外套の袖口も同じで、当ててあった裏布が引き出されたまま垂れていた。
「……ごめん。買ってもらったばっかりなのに」
「ううん、いいの」
「よくないだろ。半日も着てないぞ、これ」
「いいの、二人とも無事だったわ。——ありがとう、フィデリア」
ミレイアステルは裂けた袖口に指をかけ、垂れた糸を寄せて内側へ折り込んでやり、それから顔を上げて笑ってみせた。フィデリアは何か言いかけたまま言葉にならず、自分の裾へ目を落とす。
「やっぱり私に普通の服は無理なんだよ。着たって、こうなる」
「帰ったら繕ってあげる。少し短くなっちゃったけど、前よりはましだわ」
ミレイアステルが袖口から手を離すと、フィデリアはもう一度、広場のほうへ目を向けた。
屋台の屋根を舐めていた炎はほとんど見えなくなり、白く立ち上る煙の向こうでは、魔法使いたちがまだ水を注ぎ続けている。通りへ逃れていた人々も少しずつ戻りはじめ、倒れた骨組みを道の端へ引きずる者や、濡れずに済んだ品を拾い集める者の姿があった。
火の回らなかった屋台では、主人が卓の上に積もった灰を払い、伏せておいた杯を並べ直している。その前に早くも人が集まると、広場の反対側からは、途切れていた笛の音まで聞こえてきた。
「逞しいな、まだ続けるんだ」
「せっかくのお祭りだもの。あのまま終わるのは、嫌なんでしょう」
通りの向こうで誰かが声を張り上げると、それに応じる笑い声が続いた。フィデリアはそちらを眺めたまま、裂けた外套の袖を引き下ろそうとしたが、指先に届くはずもなく、手首が隠れたところで諦める。
「ミレイ、私たちは帰ろうか。今日はもう十分だよ」
「そうね。帰ったら、服を見せてね。どこまで繕えるか、確かめたいわ」
二人が城門へ向かう通りを歩き出すと、背後では笛に合わせて歌う声が増えていった。露店の前に足を止める人々の間を抜け、城壁の外へ出る頃にも、その歌はまだ風に乗って聞こえていた。
* * *
屋敷へ続く小道には、雑木の枝が擦れ合う音に、二人の足音だけが重なっていた。かすかに聞こえる祭りの歌声は、耳の奥に残った残響であったかもしれない。
門の内側へ入ると、先を歩くフィデリアが、不意に歩調を緩めた。
「フィデリア、どうしたの?」
「……誰かいる」
フィデリアの視線の先、屋敷の扉の手前に、白いローブをまとった小柄な娘の姿がある。特徴的なローブの意匠と、薄い金色の髪を見て、ミレイアステルはその名を呼んだ。
「プエラ? どうしてこんなところに?」
振り向いたプエラは、もうひとり、藍色のローブ姿の少女を肩で支えている。
「……フラクトルが怪我してるの。早く、早く誰か呼んで」
藍色のローブの少女——フラクトルは、ぐったりとうなだれたまま、顔をあげる様子がない。
「ハウラたちは? そっちの様子を見に行っただろ。いったい何があったんだ」
白燭のプエラとフラクトル。定期連絡が途絶えた二人の様子を見に、黒鍵たちが現場に向かったはず。
それなのに、なぜその二人だけが屋敷に戻っているのか。
ただならぬ気配を感じたフィデリアは、二人の元に駆けつけると、プエラに支えられたままのフラクトルに目をやった。
ローブの藍色に紛れて気づかなかったが、フラクトルの脇腹からは、じわりと血のシミが広がっていた。




