二. 安らぎの在処
仕事場からの帰りは、往きとは別の道を選んで大きく迂回する。それが組織の決まりで、三日をかけた帰路も、ようやく終わりに近づいていた。
街道を離れて丘をひとつ越える間に、日は稜線の向こうへ沈みきり、空の低いところにだけ残っていた赤みも、すぐに濃い藍色に呑まれていった。
雑木の間を縫う小道を抜けると、古びた屋敷が見えてくる。石積みの塀が畑ひとつ分を囲い、その奥に二階建ての母屋が長々と横たわっている。そこは、周囲からは、没落した貴族の別邸だと思われていた。
だがそこは、地方領主ノヴェリスが抱える組織〈灰の手〉の拠点だった。灰の手は各地から魔法の才を持つ者を集め、盗みや暗殺など、表沙汰にはできない仕事を請け負っていた。
「おかしいな、みんないないのか? 明かりが少ない」
「何か仕事が入ったのかもね」
門をくぐり、前庭を横切りながら、フィデリアは母屋の正面を見上げた。夕闇に沈みかけた壁の中で、明かりが見えるのは、玄関脇の小窓と、廊下の奥にあたる窓だけだ。
玄関の重い扉を押し開け、広間に進むと、奥から荷を手にした二人が歩いてくるところだった。
「ハウラ、今から出るの?」
「やあ、フィデリア、ミレイ。やっと戻ったのかい。予定より遅かったじゃないか」
フィデリアの声に片手を挙げたのは、長く伸びた白い髪を三つ編みに束ねて垂らした女だった。
細身の長衣に身を包み、切れ長の金色の目を二人へ向けている。
「急な仕事?」
「ああ。〈白燭〉に何かあったみたいでね。様子を見てくるよ」
ハウラの口元には親しげな笑みが浮かんでいた。
その隣には、白いローブをまとった女が立っていて、フィデリアとミレイアステルに向かって手を広げた。
「二人とも、お疲れさま」
「ただいま、イマーゴ」
イマーゴは肩までまっすぐに伸びた茶色の髪の下で、同じ色の目を細め、ミレイアステルが駆け寄ってその腕に飛び込むと、優しく抱きしめた。
フィデリアとミレイアステルは、魔法の才を見込まれてこの屋敷に引き取られた。
灰の手の魔法使いは二人を一組として、それぞれに名が与えられている。フィデリアとミレイアステルは〈赤杯〉と呼ばれていた。
二人が来る以前からここで仕事をしていた〈黒鍵〉のハウラとイマーゴは、仕事のことも生活のことも、何かと世話を焼いてくれている。
仕事から戻った自分たちを迎え、こうして抱き締めてくれる人がいることに、フィデリアたちはいつも安堵を覚えていた。
「あなたたちも出向くなんて、そんなに大変そうなの?」
「定期連絡がないみたいなの。状況を見てくるように言われたわ」
「チビたちの尻拭い? わざわざ二人が行くことないのに。いつも生意気ばかり言って、いざとなればハウラたちに頼るなんて」
「そんなこと言ってはいけないわ。助け合いは必要よ」
イマーゴはミレイアステルを抱擁から解放すると、大きなため息をついているフィデリアにも手を伸ばしたが、その左腕に巻かれた布に気づいて動きを止めた。
「フィデリア、怪我をしてるじゃない」
「大丈夫だよ。魔法が少しかすっただけだから」
「慎重にならないといけないわ。あなたに何かあったら、ミレイが困るのよ」
「分かってるよ」
「うるさく言われたくなければ、たまには怪我せず帰ってくることだね」
二人のやりとりを聞いていたハウラが、手に持っていた荷物を肩にかけながら小さく笑った。
「それじゃ、僕たちは行ってくる。アディウトルなら、いつもの部屋にいるよ」
「気をつけてね、二人とも」
ミレイアステルの言葉に頷くと、イマーゴとハウラは、連れ立って玄関をくぐっていった。
廊下を奥へ進むにつれて床は板張りに変わり、突き当たりの手前まで来ると、閉じきっていない扉の隙間から細い光の帯が漏れていた。
フィデリアが指の背で二度叩き、返事を待たずに扉を押し開けると、机の上に帳面を広げていたアディウトルが顔を上げた。
机の左右に紙束が高く積まれ、燭台の蝋燭は半ばまで燃え落ちている。
羽根ペンを持つ手を止めたアディウトルの灰色の目が、二人の顔を順になぞっていく。
「——予定よりも遅かったな。道中に何か問題があったか」
フィデリアは、抱えていた袋を机の上に置きながら、左腕に一瞬だけ目を落として顔をしかめた。
「道中に問題はなかったよ。でも、聞いてたのと、相手の人数が違ってた」
「それは本当か?」
「ええ。御者と荷主の他には、護衛が二人だけと聞いてたけど、もうひとり魔法使いがいたの」
「護衛もしきりに後ろを気にしてたし、情報が漏れてたんじゃないか?」
二人の話を聞いたアディウトルは、一瞬、苛立たしげに眉を寄せた。手元の帳面を指で何度か叩いた後、素早く何かを書き付ける。
「それで——その魔法使いとやらも処理したんだろうな?」
「もちろん。灰の手は何も残さない」
フィデリアの答えを聞くと、アディウトルは顔を上げ、満足そうに表情を和らげた。
「人数の違いについてはこちらで調べておく。現場で判断してよくやったな」
フィデリアは労いの言葉には答えず、それより、と机の上に置かれた袋を指さした。
「中身を確認してよ。お腹が空いてるんだ」
アディウトルは羽根ペンを置き立ち上がると、燭台を引き寄せて袋から巻物を取り出した。
螺鈿が散らされた軸をひとしきり確かめてから、巻物を開いていくと、規則正しく並んだ文字が現れた。その余白には、細かな注記がびっしりと書き込まれている。
「それ、何が書いてあるの」
「とても大切なものだ。だが、お前たちが詳しく知る必要はない」
間違いない、と呟き、アディウトルは巻物を丁寧に巻き直すと、引き出しから取り出した分厚い革袋の中に収めた。
「そういえば、さっきハウラたちに会ったよ」
「白燭の仕事が長引いていてな」
「定期連絡がないんだって、さっき聞いたよ」
「お前たち赤杯は、しばらく休養だ。街ではそろそろ冬至祭が始まる。息抜きでもしてくるといい」
アディウトルは懐から小さな革袋を取り出してフィデリアに向けて放った。フィデリアが受け取ると、袋の中で硬貨がじゃらりと鳴った。
「フィデリア、また小盾を使わなかったのか」
アディウトルの視線が、自分の左腕に向けられていることに気づき、フィデリアは気まずそうに顔を逸らすと、硬貨の入った袋をミレイアステルに手渡した。
「人数も少なかったし、問題ないと思ったんだ。巡る小盾がないほうが動きやすい」
「油断するなといつも言っているだろう。——ミレイアステル、フィデリアが無茶をしないように、お前も気をつけるんだ」
「私が言っても聞かないのよ」
フィデリアがアディウトルに見えないように舌を出すと、ミレイアステルは彼女に指を突きつけた。
「今回だって、さっさと突っ込んで行っちゃったし」
「ここは相棒としてフォローするところだろ、ミレイ」
「ともかく、今夜はゆっくり休め。次の仕事までに、傷もしっかり治しておくんだ」
* * *
母屋の裏手へ回り、短い渡り廊下を抜けて離れに出ると、二人が戸を開けるより早く、中から足音が近づいてきた。
「お帰り。ずいぶん遅かったじゃないか」
「ただいま、ラヴィア」
前掛けで両手を拭きながら姿を見せたのは、この屋敷で雑用を一手に引き受けているラヴィアだった。
「話はあとでいいよ。ちょうど湯が沸いてるから、二人とも先に汚れを落としておいで。その格好で食卓についたら、フォカリオに怒鳴られちまう」
言われてみれば、三日を歩いた二人の衣服には、街道の埃や泥がまだ残っている。ラヴィアはフィデリアの腕にも目を留めたが、それについては何も聞かず、湯から上がったら新しいものに替えてやるよ、とだけ付け加えた。
「そんなに汚れてるかな」
「自分じゃ見えないだけさ。ミレイアステルの髪もしっかり洗ってやりな。ほら、さっさと行っといで」
二人が湯を使い、三日分の汗と埃を洗い落として戻ると、食堂にはすでに温かな匂いが満ちていた。
「さあ、食いな、嬢ちゃんたち!」
姿を見るなり響いた声は、屋敷の外まで届きそうな大きさだった。
厨房との境に立ったフォカリオは、立派な太鼓腹の上で腕を組み、濃い髭に覆われた口元をへの字に曲げている。卓の上には厚く切ったパンと、肉と豆を煮込んだ鍋が置かれ、まだ盛んに湯気を上げていた。
「今日はもうお前たち二人だけだ。ゆっくり食べな」
「温かい食事は久しぶりだ」
「柔らかいパンもね」
フィデリアは待ちきれない様子で椅子を引き、ミレイアステルもその隣に腰を下ろした。
仕事に出ている間は、簡素な保存食しか取れない。味気ない食べ物には慣れているとはいえ、屋根のある場所で、こうして温かい食事を取れることは嬉しい。
食事を終えるころには、離れの外もすっかり夜の色に沈んでいて、二人はラヴィアとフォカリオに夜の挨拶を済ませると、自分たちの部屋へ戻っていった。
「ふう、お腹いっぱいだよ」
「さすがに食べすぎたんじゃない?」
部屋には寝台が二つ、壁沿いに間を空けずに並んでいた。それぞれの足元に衣装箱がひとつずつ置かれ、あとは窓の下に水差しの盆があるきりだった。
「ほら、着替えないと」
「はい、はい」
フィデリアはそのまま寝台に横になりたい気持ちを抑えて、ミレイアステルから寝巻きを受け取ると、着ていた服を脱いでいく。
「傷は大丈夫?」
「もう痛まないよ。かすり傷だから」
フィデリアが顔を向けると、寝台の縁に腰かけたミレイアステルは、脱いで膝の上に置いたローブに手を重ねたまま動かずにいた。
「ミレイ、どうかした?」
「——無茶はしてほしくない」
フィデリアは手早く着替えを済ませると、ミレイアステルの寝台に並んで腰かけた。
「無茶なんてしてないよ。今回もちゃんとうまくやったし、何も問題ない」
「フィデリアに何かあったら、私は困るわ」
フィデリアの腕がミレイアステルへ伸び、その肩をそっと引き寄せる。膝の上のローブが崩れて床へ滑り落ちたが、拾おうという気は起きなかった。
「ミレイをひとりになんてさせないよ」
ミレイアステルが目を閉じると、フィデリアの手が優しくその髪を撫でていく。
「今日は一緒に寝たい」
「いいよ。仕事が終わった日は、いつもだね」




