一. その手に握るもの
街道は丘の裾を大きく回り込んで、その先は葉を落としきった林の中へ消えている。道を見下ろす斜面には剥き出しの岩が段をなし、枯れ草と痩せた灌木がまばらに生えるばかりで、岩陰や窪みに人が身を潜めていても、下の道から見分けられはしないだろう。
その岩のひとつに腹這いになって、フィデリアは道の彼方を見ていた。
吹き下ろす北からの風に、その赤い髪が流されるたび、彼女はそれを手の甲で払いのけた。半袖の短衣から伸びた腕にも、膝丈の巻きスカートから覗く足にも、冷たい風が容赦なくぶつかるが、それでも肘をついた姿勢を崩さずにいる。
岩のすぐ後ろ、浅い窪みには、黒いローブに身を包んだミレイアステルが膝を抱え、フィデリアの背中越しに同じ道を眺めていた。その脇に立てかけられた黒いワンドは、傾いた日を浴びながら、そこだけ影が差しているように暗かった。
「……随分と遅いな」
フィデリアは舌打ちのひとつでもしたい気分だった。アディウトルが告げた刻限からは、すでに小半刻が過ぎている。あの男の口から出る指示は、いつも紙に引かれた線のように正確だ。その予定に狂いが生じているとなると、じっと待つ身にも焦りが湧いてくる。
「フィデリア、寒くないの?」
ミレイアステルの声に、フィデリアが顔だけ振り向くと、喉の上で、銀色のチョーカーが小さく鳴った。
「大丈夫、そんなに寒くない」
「嘘よ。さっきから腕にも足にも、鳥肌が立っている」
「そんなところ見るなよ、ミレイ」
腕をさすったフィデリアが道へ視線を戻すのを待って、ミレイアステルは自分のローブの裾を引き寄せ、その足へ被せてやった。押し返そうとした手が伸びかけ、途中で止まって、そのまま岩の上に戻っていく。
林の奥から車輪の軋みが伝わってきたのは、日がもう一段傾いてからのことだった。
「やっと来た。予定通り護衛は二人だ」
現れたのは二頭立ての箱馬車で、車体はよく手入れされ、扉には花輪をあしらった紋が描かれていた。しかし、金をかけた造りのわりに、旗はなく、身分を誇示するような飾りもない。
前後には騎乗の護衛がひとりずつつき、後ろの一騎は、鞍の上でしきりに背後を振り返っていた。
フィデリアが身を起こしかけたところで、ミレイアステルがその足首を押さえた。
「待って。たぶん馬車の中に二人いる。車輪の沈み方が、荷と人数に合っていない」
「荷主の他にもう一人いるのか? そんなの聞いてないぞ」
「来るのも遅かったし、予定が変わったのかも」
フィデリアは今度こそ舌打ちすると、岩に手をついて身を起こす。風がまともに正面から当たり、赤い髪が後ろへ流れていった。
「いいさ、ひとりくらい増えたところで問題ない。——行くよ、ミレイ。掴まって」
ミレイアステルは、片手にワンドを抱え、もう片方の腕をフィデリアの腰に回した。
「理の律、結び煌めけ、この身を巡り、制約を貫け——」
フィデリアの唇から零れた声は、風の音の下でさえ、ひどく澄んで響いた。その足元で、乾いた土が細かく震えはじめる。
「駆けめぐる星環」
魔法名が結ばれると、フィデリアの手首と足首に、光の輪が生まれた。それは滑らかな環ではなく、外へ向けて幾本もの棘を突き出した、鉄輪にも似た歪な形をしている。フィデリアが動くたびに、細かな光の粒が散っていく。
フィデリアは、ミレイアステルを抱えたまま岩から飛び降り、そのまま大きく跳躍する。その勢いに、ミレイアステルのフードが払われ、長い黒髪が風にたなびいた。
二歩目にはもう斜面の半ばを過ぎ、岩を蹴り、砂利を巻き上げ、街道の路面へ降り立つと、抱えていたミレイアステルを静かに下ろした。
「じゃあ、行ってくる」
そう言って腰から短剣を抜き放つと、フィデリアは馬車に向かって走り出した。両手に握られた黒い短剣の刃は、沈みかけた日に照らされても光を返さず、輪郭が周囲の暮色に溶けかけている。
護衛が気づいて剣を抜いた時には、フィデリアはすでに目前に迫っていた。抜き放った腕がまだ伸びきらぬうちに、彼女は馬の首の脇をすり抜けざま、鐙にかけた男の足を下から刈り上げていた。黒い刃が骨まで断って抜け、鞍から傾いだ体が路面へ落ちる前に、もう一方の刃が喉を横切っていく。
鮮血が遅れて噴き出し、驚いた馬が前脚を上げて嘶いた。
馬車の後ろにいた護衛が、馬腹を蹴って駆け寄ってくる。馬上から振り下ろされた長剣を、フィデリアは避けようともせず、左手の短剣を跳ね上げて受け止めた。
鋼と鋼の噛み合う音が短く鳴ったかと思うと、護衛の剣が半ばから折れて宙を舞った。地面を蹴ったフィデリアの右手の短剣が鞍上の胴へ吸い込まれると、相手は声を上げることもできずに落ちていく。
御者台の男が慌てて手綱を引き絞り、馬車が急停止すると、扉が内側から蹴り開けられ、中から外套をまとった男が路面へ飛び降りてきた。
フィデリアがそちらに視線を向けた時には、すでに男の口から詠唱が流れていた。
「大気よ、震え響け、集い貫け——衝波」
男の掌の先で空気が凝り、勢いよく放たれる。
フィデリアは踏み込みかけた足を強引に横へ流し、路肩の側溝へ身を投げ出す。先ほどまで頭のあった場所を波が通り抜け、背後の若木を根元から薙ぎ倒していった。
「くそ!」
地面を転がって立ち上がったとき、彼女の左の二の腕には、皮を薄く削がれた赤い筋が走っていた。
男の掌が再び自分に向けられ、その口が開かれても、しかし、フィデリアは今度はその場から動かなかった。
後方から、空気が破裂する音が響く。
次の瞬間、漆黒の雷が外套の男を貫き、男は掌を向けた姿勢のまま、体の内側から弾かれるように仰け反ると、そのまま路面へ叩きつけられた。胸元から煙が細く立ち、指がひとしきり路面を掻いて、それきり動かなくなる。
フィデリアは、黒いワンドを掲げているミレイアステルに合図を送ると、馬車のほうへと視線を向けた。
御者台から悲鳴が上がり、手綱を投げ捨てた御者が、転がり落ちるようにして街道へ降り立ち、来た道を逃げていく。
フィデリアはそれを目の端に入れただけで、追うことはしなかった。
血の滴る短剣を提げ、止まった馬車に歩み寄っていくと、扉から男がひとりまろび出てきた。上等な旅装をまとった、腹の出た中年の男で、口を紐で括った大ぶりの布袋を抱え込んでいる。
路面に倒れた護衛と、広がっていく血だまりを見て、男はその場に膝を折った。
「ま、待ってくれ、金なら払う、いくらでも払う。そうだ、この荷が目当てなんだろう。私は何も見ていない、誰にも言わない、だから、頼む——」
言葉は途中から意味を失い、喘ぎと混ざり合って零れ落ちていく。男は袋を両手で捧げ持ち、額を路面に擦りつけるようにして、それを差し出した。
フィデリアは袋を受け取ると、近づいてきていたミレイアステルのほうへ放り投げる。
ミレイアステルが紐を解いて、中を覗き込むと、革の覆いをかけた巻物が一巻だけ納まっていた。両端の軸は金で鋳られ、螺鈿が細かく散らされている。
「間違いないわ」
巻物を確認したミレイアステルに頷きを返すと、フィデリアは、まだ額を地につけている男に歩み寄りながら、短剣を構え直した。
「——灰の手に握られたものは、何も残らない」
その呟きは風に紛れ、男の耳へ届いたかどうかわからない。
顔を上げた男が最後に見たのは、光の輪をまとった娘の、まだ幼さの残る面差しだったはずだが、そこに何が浮かんでいたのか、それを語る機会が男に訪れることはなかった。
黒い刃が肩から胸へ斜めに走り、崩れ落ちていく男を見下ろしながら、フィデリアは刃を振って血を払う。
ふっと息を吐くと、手足に浮かんでいた光の輪は音もなく霧散していった。
「お疲れさま。あとは私が」
ミレイアステルは袋を左の腕に抱え直し、右手のワンドを持ち上げた。
視界の先、街道の彼方では、先ほど逃げ出した御者がまだ走っていた。もう豆粒ほどの大きさで、林の入口まではあとわずかである。
「闇の奥、光を歪め、音なき空を、裂き、堕ちよ——」
詠唱の言葉とともに、ミレイアステルの背後に、二つの黒い球が浮かび上がる。
「夜を灼く逆しまの閃き」
魔法名が宣言されると、再び空気が破裂する音が響き、空中の球から放たれた漆黒の雷は街道を走り、はるか遠くの人影を正確に貫いた。
「よし、終わりだ。戻ろうか」
「フィデリア、腕は大丈夫? 魔法が掠ったでしょう」
フィデリアが左腕を持ち上げると、二の腕の赤い筋からは、まだ薄く血が滲んでいた。
「大したことないよ」
「そのままじゃだめよ」
ミレイアステルは袋を地面に置き、ローブの内から布を取り出すと、フィデリアの腕を取った。
布が巻かれていく間、フィデリアは何も言わず、赤い髪を風に流されるままにしていた。
「いてて、ちょっときついよ」
「動かすからでしょう、じっとしてて」
「……ありがとう、ミレイ」
ミレイアステルが再び袋を抱え上げると、ふたりは林とは反対の方角へ歩き出した。
日はもう丘の向こうに落ちかけて、斜面の岩も、街道も、そこに転がるものも、等しく同じ色へ沈んでいく。




