二十. それはかつての己
首都の南西、城塞都市モエニアとの中間に位置する街、カルディナ。ここは交通の要所として栄え、世界魔法統括評議会の支部も存在する。
そのカルディナから、馬ならば半日程度かかる郊外に、インディクス・ヴェリタスの邸宅があった。
低い石積みの塀に囲まれた敷地の中に、二階建ての母屋が立っている。庭を挟んだ裏手には、母屋より低い屋根がいくつか並び、そのひとつからは、時折、馬の鼻を鳴らす音が聞こえてくる。
やがて、遠くからかすかに一時課の鐘が聞こえてきた頃、インディクスと思われる人物が姿を現した。
「——出てきたぞ」
「アディウトルから聞いた通りね、間違いなさそうだわ」
インディクス邸を望む雑木林の中で、抑えた声を交わし合ったのは、フィデリアとミレイアステルだった。
インディクスの後ろには、眼鏡をかけた女が、幼い子どもと手を繋いで続いている。門の前で待っていた馬車に三人が乗り込むと、御者のかけ声と共に、カルディナに向けて出立していった。
「ねえ、もういいんじゃない?」
「こっちはいつでも準備できてる」
フィデリアたちの後ろで不貞腐れたような声をあげたのは、薄い金髪を結い上げたプエラだった。隣に立つフラクトルも、右手に持つ槌を突き立て、プエラの言葉に頷いている。
「もう少し待つんだ。インディクスたちが確実にここを離れたことを確認してからだ。そういう話だっただろう?」
アディウトルから指示された手順をあっさりと覆そうとする白燭の様子を見て、フィデリアはため息をつきたい気分だった。
「私たちが合図するから。ほら、二人はそれまで待機よ」
ミレイアステルの言葉に、プエラたちは不満そうな顔を見せつつも、大人しく下がっていく。
「あいつら、いつもあんな適当にやってるのか?」
「二人らしいと言えばそうだけど」
「まったく……」
白燭の二人が、幼いながらも魔法の才に恵まれていることはフィデリアにも分かっていた。
しかし、もし、その力に驕るようなことがあれば——。
所詮、自分たちの命は、薄氷を踏むような危うさの上に成り立っていることを忘れてはならない。フィデリアは隣に寄り添うミレイアステルの横顔を見つめて、自らを戒めるようにして拳を握りしめた。
「まあ、さっさと終わらせたい気持ちはわかるけど……少し様子を見てくる」
「ええ、気をつけてね」
駆けめぐる星環を纏ったフィデリアは、魔法で強化された脚力を解き放つと、あっという間に道の奥に姿を消した。
* * *
「——戻ってくる気配はなさそうだった。そろそろ動こう」
しばらくして戻ってきたフィデリアの報告を聞き、白燭の二人が進み出る。
「やっと? 待ちくたびれちゃった」
「中で慌てるなよ。何かあったら、手筈通り戻ってこい」
「分かってるってば。ねえ、フラクトル」
「うん、任せて」
「二人とも、気をつけてね」
ミレイアステルに手を挙げて応えると、プエラとフラクトルはインディクス邸に向けて走り出した。
塀に沿って裏手へ回ると、厩と薪小屋の間に、小さな門が見えてくる。掛け金が持ち上げられたままになっていて、内側には、泥のついた手押し車が寄せてあった。
二人は門を抜けると、厩の壁に身を寄せて様子を窺う。
「あたしが先に行く。プエラ、離れすぎないでね」
人影がないことを確認して、フラクトルが走り出し、すぐ後ろをプエラがついていく。庭を横切り、母屋に辿り着くと、裏口の扉から中へと滑り込んだ。
「書斎は上だよね」
左手は居間のようで、薪を下ろす音に、何かを尋ねる女の声が混じる。
「……玄関はあっちかな。階段を見つけないと」
「うん、行ってみよう」
居間とは逆方向に廊下を進むと、長卓と椅子を並べた広間に出た。
壁には大きな織物が掛かり、その脇の階段が上階へ続いている。
「あった、階段——」
「おい、お前たち、どこから入った」
振り向くと、広間に入ってきた使用人らしい男が、二人に怪訝そうな視線を向けていた。
フラクトルは躊躇なく踏み込むと、手にしていた槌を突き出し、再び口を開きかけた男の顎の下に叩き込む。
男が鈍い呻き声をあげてうずくまると、フラクトルは間髪入れずに、振り上げた槌を男の後頭部に叩きつけた。
うつ伏せに倒れた男の頭部から、じわりと血の染みが広がっていく。
「ありがとう、フラクトル。人が来ると面倒だし、急ぎましょ」
階段を上がった二人は、すぐにそれと思わしき部屋を見つけた。
ゆったりとした広さのその部屋には、両側の壁に沿って本の詰まった棚が並んでいるが、それでも収まり切らないのか、床のあちこちにも本が積み上げられている。
部屋の奥に据えられた木製の机には、細かな文字や図を書きつけた紙が幾重にも広がり、両脇には開いたままの本が置かれている。
蓋の開いたインク壺のそばには、軸まで黒く汚れた羽根ペンが何本も転がっていた。
いかにも学者の部屋のように見えたが、入り口の手前に置かれた銀色の甲冑像が異彩を放っている。
「たぶんここだね」
「ちょっと待って、えっと」
プエラが懐から取り出した羊皮紙を広げる。
「目的の本はこれだけど、こんなに本があるなんて聞いてないわ」
「面倒だけど、探すしかない。あたしはあっちを探すから、プエラはこっちの本棚から」
「散らかしすぎよね、嫌になるわ」
二人が部屋に踏み込み、本棚に向かおうとした、その時、後ろから金属が擦れ合う音が響いた。
「なに?」
「見て、甲冑が!」
入り口に置かれた銀色の甲冑がゆっくりと足を踏み出し、右手に持っていた剣を両手に構え直していく。
「なによこれ! 中に誰か入ってるの?」
しかし、覗き込んだ兜の細い隙間の奥には、人の顔も、目の光も見えなかった。
鎧が一歩踏み出し、プエラに剣を突き出した。
「プエラ、下がれ!」
フラクトルが槌で剣を弾き上げる間に、部屋の奥に飛び退いたプエラは、腰に下げていた灰色の鈴を掲げる。
「大気よ、震え響け、集い貫け——衝波」
不可視の衝撃波が鎧に襲いかかるが、鈍い音を立てただけで、鎧は微動だにしない。
「衝波が効かない!」
鎧は標的をフラクトルに移すと、剣を横薙ぎに振るう。
槌で剣を受け止めたフラクトルの小さな体が、衝撃を吸収できずに壁際の本棚まで吹き飛んでいく。
「くそ、こいつ……」
「フラクトル、砕け散る牙は駄目よ! 部屋がめちゃくちゃになっちゃう!」
振るわれる剣の威力は凄まじいが、鎧の動きは緩慢で、続く一撃を、フラクトルは転がりながら避けた。
フラクトルは槌を突き出して鎧を押し退けると、プエラに向かって叫んだ。
「プエラ、こいつの動きを止めろ!」
プエラが再び灰色の鈴を鳴り響かせる。
「月の残光、明けの欠片、乱れ、死を標せ——裂けゆく暁影」
魔法名が結ばれると、手にした鈴の先から、淡く光る細い糸が放射状に伸びていき、フラクトルを追って踏み込んだ鎧の手足に絡んでいく。
糸が触れた場所に幾筋もの傷が走り、抵抗しようとした片腕が、肘の継ぎ目から弾け飛んだ。
「大人しくしなさい!」
プエラが鈴を振ると、今度は、首に巻きついた糸が、鎧の兜を吹き飛ばす。
「やっぱり、中に誰もいない……」
首と片腕を失った鎧は、なおも片手で剣を振り上げたが、フラクトルはすでに詠唱を始めていた。
「落日の欠片、冬星の一条、お呼びだぞ、抉り貫け」
磨き上げられた骨でできた槌の先に、赤黒い槍の穂先が伸びていく。
「——不義理な鋭峰」
突き出された穂先は、銀色の甲冑を紙のように貫通した。
そのまま槌を薙ぎ払うと、胴を真っ二つに引き裂かれた鎧が崩れ落ちていく。
「フラクトル、大丈夫?」
鎧が再び動き出さないことを確認すると、駆け寄ったプエラが心配そうにフラクトルに声をかけた。
「うん、なんとか……。こいつ勝手に動いたのか?」
「これって魔法なの? こんなの聞いたこともないけど」
魔法を解除した二人は、再び本の捜索に戻るが、戦いの音を聞きつけたのか、階下から上がってくる人の声が伝わってくる。
「プエラはこのまま本を探してて。あたしが片付けてくる」
「うん、分かった! もしこの鎧みたいなのが出てきたらすぐ呼んでね」
槌を構え直してフラクトルが部屋を出ていくと、プエラは再び部屋の捜索に戻った。
部屋の外からは、誰何の声に、フラクトルの詠唱の声が重なっていくのが聞こえてくる。
「……あった! これじゃない?」
机の上に広げられた本を取り上げると、その表紙には「言葉の秩序について」という文字が書かれていた。
「うーん、絵と少し色が違う気がするけど、でも、表題はあってるし、内容もそれっぽい。こんなにすぐ見つけるなんて、プエラは天才かも」
本をめくりながらプエラが確認していると、フラクトルが部屋に戻ってきた。
「こっちは片付けた」
「あ、フラクトル、あったよ!」
プエラが本を手渡すと、フラクトルは表紙を確認し、取り出した蝋引きの紙で丁寧に包んでいく。
「よし、このまま向かおう」
「ねえ、ねえ」
「ん? どうした、プエラ」
包みを鞄にしまい終えたフラクトルが顔を上げると、袖を引いたプエラが不満そうに頬を膨らませている。
「ありがとう、助かったよ」
「もう! それだけ? ミレイはいつももっと褒めてもらってるよ」
口を尖らせて顔を寄せるプエラを見て、フラクトルは小さく笑うと、金色の髪にそっと手を添えた。
「さすがプエラ。いつもありがとう」
「うん!」
プエラはようやく満足そうに頷くと、フラクトルの肩に頭を預けた。
「あとは、これを届けるだけだ」
「うん、これでプエラたちは——」
二人は互いに頷き合うと、崩れ落ちた鎧を跨いで部屋を後にした。




