十八. 温もりの傍ら
テーブルに置かれた深皿から、肉と香草の匂いを含んだ湯気が上がっていた。よく煮えた蕪は匙を当てると簡単に崩れたが、フィデリアはそれをすくおうとはせず、汁の中へ沈むのを眺めている。
「パンも食いな。まだあるからな」
「……ありがとう」
厨房から出てきたフォカリオが、籠に盛られたパンを二人の前に置いた。
フィデリアは礼を言いながら籠に手を伸ばし、隣に座るミレイアステルに「取ろうか?」と声をかけた。
しかし、ミレイアステルが首を振るのを見て、フィデリアは自分の分だけパンを取ると、小さくちぎって汁に浸す。二人の間で交わされる言葉は少なく、匙が皿を擦る音だけが響いていた。
モエニアの宿でフォルティスたちと別れ、赤杯の二人が灰の手の屋敷に戻った頃には、日はすっかり暮れていた。
すでにアディウトルへの報告も済ませ、旅の汚れを落とした二人は、ようやく温かい食事を囲んでいた。
「あ、戻ってるじゃん!」
食堂の戸口で元気な声をあげたのは、白いローブ姿のプエラだった。その隣にはフラクトルがいつもの藍色のローブをまとって立っている。
「さっき帰ってきたところよ」
ミレイアステルが微笑みながら応じると、プエラは小走りに近づいてきて、向かいの椅子を引き寄せた。
「お帰り。ずいぶん長かったじゃない」
「今回は場所が遠かったんだよ。——二人は変わりなかったか?」
フィデリアの言葉に、プエラは頬を膨らませながら、大袈裟に肩をすくめた。
「変わりないどころか退屈だったわよ。ハウラたちも帰ってこないし、プエラたちはずっと待機だし」
「そうだね。おかげであたしは、毎日プエラの愚痴に付き合うはめになった」
フラクトルの皮肉に、プエラは「なによ!」といって立ち上がる。
変わらぬ二人の様子を見て、フィデリアたちは顔を見合わせて小さく微笑んだ。
「ちょっと、二人とも何を笑ってるのよ!」
「それよりあたし、お腹が空いた。ほら、プエラ、食事もらいにいこう」
プエラは赤杯の二人に言い返そうと立ち上がったが、フラクトルが先に厨房へ向かうのを見て、慌ててあとを追いかけた。
「フォカリオ、あたしたちの分もちょうだい」
「せかすな、今持っていく。座って待っとれ!」
急に騒がしくなった食堂の様子を、フィデリアたちは心地よく受け止めていた。
ようやく自分たちの居場所に戻ってきた安心感が二人の中に広がっていく。
席に戻った白燭たちの前にも皿が並ぶと、フラクトルは早速肉を口へ運び、熱さに顔をしかめた。
「ほら、慌てるから」
「うるさいな、分かってるよ」
賑やかな食事が始まったのを見て、フィデリアも食事を再開したが、パンをひと口齧っただけで、すぐに皿に置いてしまった。
「ねえ、フィデリア。もしかして食欲ないの?」
「……そんなことないよ」
「さっきから、パンをちぎってばっかりじゃない。気分でも悪いの?」
顔を上げると、プエラが皿を覗き込んでいた。フラクトルも口いっぱいに頬張った肉を咀嚼しながら、フィデリアの顔を見ている。
「何でもないさ。少し疲れたかな」
「あんたが食べないなんて、よっぽどじゃない」
「……今回は久しぶりに長い旅だったから。フィデリアも私も、今日はあまり食べられそうにないわ」
ミレイアステルが横から言い添えると、フラクトルは頷いて食事を再開したが、プエラはなおも不審そうな顔を向けていた。
「ねえ、何か失敗した?」
「まさか……」
失敗するわけないだろ、そう言いかけたフィデリアの言葉はうまく声にならなかった。
目の前の食卓に、クストスの郷で過ごしたあの夜の光景が重なっていく。もてなしの料理が卓に溢れ、あちらこちらで祝いの杯が行き交う。笑い合う人々の間を子供たちが駆け回っていた。
しかし、その笑い声に、怒号が重なっていく。
刃物を握った男たちが、憎しみを滲ませて迫ってくる。振り上げられた斧をかわし、男の喉へ短剣を突き立て——。
「フィデリア……」
ミレイアステルの声に、フィデリアはハッとして顔をあげた。
差し出された水をひと口飲むと、喉に冷たさが広がっていく。しかし、その手がかすかに震えていることに気づき、そっと膝の上で拳を握りしめた。
「あら、本当になにかやらかしたの?」
「そんなことないわよ、プエラ。仕事はしっかり果たしたわ。フィデリアは魔法を使いすぎて、まだ疲れが取れないのよ」
ミレイアステルがそう言うと、興味を失ったのか、プエラは気のない返事を返して匙を皿に沈めた。
「まあ、赤杯が使い物にならないなら、次の仕事はプエラたちがもらえるね」
「……あたしはそんなに仕事したくないけど」
「何言ってるのよ、フラクトル! プエラはもっと稼ぎたいんだから」
二人のやりとりを見て、フィデリアが思わず吹き出してしまう。
「やめてくれ。調子が狂う」
「なによ、こっちの台詞よ。あんたがしょぼくれてるから心配したのに」
プエラが身を乗り出すと、フィデリアはようやく、皿に置いたパンを口に入れた。
「もう大丈夫だよ。ありがとう、プエラ」
「……な、なによ」
プエラは何か言い返そうとしたものの、口をパクパクと動かすだけで、結局小さく鼻を鳴らして顔を背けてしまった。
「お前たち、話ばかりしてないで早く食っちまえ! 片付けができないだろうが」
厨房から姿を現したフォカリオの声で、四人は再び慌ただしく匙を動かし始めた。
* * *
屋敷を囲う雑木林を抜けた先に、低い丘があった。斜面を覆う草はすっかり枯れ、頭上には枝に遮られない夜空が広がっている。
食事のあと、少し歩きましょうと誘ったのはミレイアステルだった。丘の中ほどまで上って振り返ると、暗い木々の向こうに、屋敷の窓の明かりがいくつか見える。
「ここに来るのは久しぶりね」
「寒くない?」
「ええ、平気よ」
ミレイアステルが外套の前を合わせ、草の上へ腰を下ろすと、フィデリアも隣へ座り、膝に肘をついて、遠くの明かりを眺めた。
星を探して顔を上げるミレイアステルにつられ、フィデリアも空を仰ぎ、しばらく二人は夜空を眺めていたが、やがて視線は、木々の向こうへと下りていった。
「——あそこには、穏やかな暮らしがあった」
家々の間に響く薪の音や、道端で交わされる挨拶が、耳の奥に残っている。ずっと続くはずだった、暮らしの音が。
「誰も傷つけず、誰からも奪わない、そんな暮らしが」
「私には……少し眩しい光景だったわ」
「帰る場所があって、暖かい食事を食べられて、屋根のある場所で眠れる。私はそれで十分だと思ってた」
「ええ、私も」
ミレイアステルはフィデリアの顔は見ずに、少しだけ体を寄せると、フィデリアの冷えた左手を自分の外套の中に招いた。
「……それからミレイ。君や仲間がいる」
風が斜面を渡り、枯れ草の先を鳴らしていく。
ミレイアステルの体温が伝わり、外套の中の左手は少しずつ温まっていく。その分、風にさらされた右手の冷たさが、ひと際強く感じられた。
「私は……守りたかった、この場所を」
じっと手を見ていると、洗い流したはずの返り血が、まだそこに見える気がした。
向かってくる郷の住人の腕を切りつけ、喉を裂いた時の感触が、今もその手に残っている。
「——あれでよかったのかな」
その時、今までよりも強い風が吹き抜けると、ミレイアステルは外套を広げてフィデリアの体を包み込んだ。
「私は、フィデリアがいてくれないと困る」
「……ミレイ」
「あなたはひとりじゃない。私も同じ、あなたと同じよ」
顔を伏せたミレイアステルの肩を、フィデリアはそっと抱き寄せた。その華奢な肩は、分からないほどに小さく震えている。
「あの光景を見て、私はミレイにあんな風に暮らしてほしいって思った。朝起きて、冷たい水で顔を洗って……えっと、次は何をするんだ?」
フィデリアがうーんと唸る様子に、ミレイアステルがふふっと笑い出す。フィデリアの腕に、さっきとは違う震えが伝わってくる。
「なんだよ、笑うなよ。ミレイだって分からないだろ」
顔を上げたミレイアステルは、目の端に浮かんだ涙を手の甲で拭った。
「いいえ、私は分かるわよ」
「なに? あ、薪を割りに行くのかな」
違うわ、と言って、ミレイアステルは夜空を仰いだ。薄い雲が流れる中、星々がまばらに輝いている。
「——私はね、顔を洗って目を覚ましたら、まだ寝ているあなたを起こしにいくのよ」
「ミレイ……」
「どんなに良い暮らしをしたとしても、あなたが隣にいてくれないなら、そんなの意味ないの」
少しの沈黙の後、フィデリアは外套から出て立ち上がった。
大きく息を吸うと、夜の冷たい空気が肺を満たしていく。
ふうっと息を吐くと、フィデリアはくるりとミレイアステルに向き直り、その場で静かに膝をついた。
「私はこの手でミレイを守る。——君とずっと一緒にいるために」
「ええ、私も。だって私たちは、二人で赤杯だもの」
ミレイアステルは、フィデリアが差し出した手をそっと握り返した。




