十七. 言葉の行方
屋敷の屋根を照らしていた夕日が、庭を囲む木々の向こうへ沈みかけていた。昼のうちに乾いた布を取り込むアンシラの指先にも、冷たい風が触れていく。
アンシラが最後の一枚を籠へ収めていると、庭の奥に小さな明かりが見えた。籠を持ったまま近づいてみれば、そこにいたのは、この屋敷の主、インディクス・ヴェリタスだった。
その指先には、小さな光の球が浮かんでいる。
「ご主人様、こんなところで何をなさっているのですか」
アンシラの声にインディクスが振り向くと、光の球は掠れて消えていった。
「ああ、アンシラか。——ちょうどよかった。少し付き合ってくれないか」
インディクスの手招きに応じてアンシラがそばへ寄ると、インディクスは庭の奥を見渡し、木々の下に残る暗がりへ指を向ける。
「うん、あそこが良さそうだ」
インディクスは咳払いをして声の調子を整えると、詠唱を紡いでいく。
「小さき灯、集い、漂え——灯火」
先ほどと同じように、指の上へ小さな光の球が浮かび上がった。足元の道は明るくなったが、少し離れた花壇の縁は、夕闇の中に沈んでいる。
「この前は詠唱を短くして見せただろう。今度は、逆を試しているんだ」
「逆、と申しますと」
「つまりこうだ——」
インディクスは指先の灯りを消し、今度は言葉をひとつずつ確かめるように、ゆっくりと詠唱を始めた。
「小さき灯、出で集い、球となりて、闇を払い、照らせ——灯火」
再び生まれた光の球は、手元からゆっくりと浮き上がり、二人の頭より少し高いところで止まった。
その明かりが庭へ広がると、暗がりに紛れていた花壇の縁や、道を覆う落ち葉の形が、奥の方まで浮かび上がってくる。
「これは……灯火の魔法がこれほど明るくなるのですか」
アンシラの驚きに、インディクスは満足そうに頷く。しかし、光の球はすぐに形を崩し、点滅を繰り返したかと思うと、あっという間にその明るさは失われてしまった。
「ううむ、やはりまだうまくいかんな。もう少し保ってくれればいいんだが……」
光の球は、最後の光を放つと、すっと消えていく。
「ご主人様、大丈夫でございますか。ご無理をなさったのでは?」
「いや、実は魔力はそれほど使っていない。これだけ照らしたのだから、もっと疲れてもよさそうなものだけれどね」
アンシラは、その言葉を聞いて、以前インディクスが書斎で話したことを思い出した。
「魔力の使い方、とやらが関係しているのでしょうか?」
「覚えていてくれたかい」
魔力は魔法を生み出すためではなく、言葉を世界に届けるために使われている。そして、世界は言葉を聞き入れ、それに応じて魔法という現象を起こしているのではないか。
それは、以前インディクスがアンシラに語った仮説だった。
「だけど、そう簡単にはいかないようだ。言葉の組み方が、まだうまくいっていないんだろう。いくつか試してみて、これでも随分よくなった方なんだ」
「形を定め、照らすように命じただけで、これほどの違いが出るとは思いませんでした」
「君も知っている通り、長い詠唱を持つ魔法ほど、強力で複雑な現象を起こす。私は、あの長さが何のために必要なのかを考えているんだ」
高度な魔法には複雑で長い詠唱が必要。逆に、先ほどの灯火のような簡単な魔法は短い詠唱ですむ。
それは魔法使いたちにとっては、ごく当たり前のことだった。
「どこに、どんな形で、どれだけの間、何をさせるのか。伝えなければならないことが多ければ、それだけ言葉も増えるだろう? 私が欲しい現象を、世界にもっとよく伝えられたら、と思っていてね」
「短縮するときと同じように、ただ長く唱えればよい、ということではないのですね」
「その通りだ。通常の詠唱と同じように、どんな魔法でも法則は必要だ。短くても、長くてもね。しかし、この法則というのは、もっと柔軟で応用が利くもののはずなんだ」
アンシラに向けて話しているようで、インディクスの目はもうどこか別のところを見ているようだった。
ぶつぶつとつぶやいては首を傾げ、懐から取り出した紙片に何ごとかを書き込む。
「ご主人様。その続きは、お食事を召し上がってからになさってくださいませ」
「おっと、すまない。もうそんな時間か」
インディクスは夕闇が迫る庭の先を見ると、申し訳なさそうに頭を掻いた。
その時、連れ立って歩き出した二人の頭上から、元気な声が飛んできた。
「お父さま、アンシー、見て見て!」
声の方を振り仰ぐと、庭に立つ木の上に、単衣にズボンを履いた小さな人影が見えた。
幹から横に伸びた太い枝に立ち、片手で幹を抱きながら、もう片方の手をこちらへ大きく振っている。
「おい、ロクィア! そんなところで何を——」
娘の名を呼んだインディクスが、そちらに駆け寄ろうとした瞬間、枝を踏んでいたロクィアの足が滑り、手が幹を掴み損ねた。
あっ、っと声をあげたロクィアが、真っ逆さまになって落ちていく。
「ロクィア!」
「お嬢様!」
飛び出したアンシラが、銀縁の眼鏡へ手を当てる。
「——羽の足音」
背中から地面に落ちる直前、ロクィアの体は、見えない何かに包まれるようにして空中で動きを止めると、そのままゆっくりとした速度で地面に近づいていく。
「ロクィア! 大丈夫か? 怪我はないかい」
慌てて駆け寄ったインディクスが娘の肩を抱いた。
「うん……大丈夫」
ほっと胸を撫で下ろすインディクスの後ろから、アンシラもロクィアの顔を覗き込む。
「お嬢様、お転婆もほどほどにしてくださいませ」
インディクスは娘の体に傷がないことを確かめると、服についた木の葉を払ってやった。
「……ごめんなさい」
アンシラは、目に涙を浮かべるロクィアの前にしゃがみこむと、その手を取って、傷がないかを丁寧に確かめた。
「いいえ、お役に立てて何よりです。さあ、お食事に参りましょう」
うん、といって元気よく歩き出した娘の姿を見ながら、インディクスはふとアンシラに問いかけた。
「なあ、アンシラ。……君はもしかして、常に魔法を詠唱しているのか?」
「はい、五つほどは。——ご主人様とお嬢様をお守りするのが、わたくしの役目でございますから」
アンシラはそういって会釈すると、走り出したロクィアの後を追っていく。
「世界が言葉を解釈するのなら、一度伝えたことを覚えておいてはくれないのだろうか……」
インディクスの言葉は、冬の訪れを告げる風に流されていった。




