十二. やがて己に還る
モレリオに招かれて戸口をくぐり、薄暗い入口の間を進んでいくと、薪の燃える匂いを含んだ暖かな空気が流れてきた。
居間は広く、入口脇の隅には、石を積み、粘土で表面を塗り固めた大きな竈が、壁から張り出すように据えられていた。低く開いた焚口には赤い熾火が残り、高い天井を支える太い梁は、長年の煙で黒ずんでいる。
小さな窓から明かりが差し込む側には、長椅子を添えた大きな卓が置かれ、すでに人数分の杯が並べられていた。
「どうぞ、フォルティス殿」
フォルティスが腰を下ろすと、アルミゲルがその後ろに立つ。
「灰の手、お前たちは先に荷を解いてくるといい。私はしばらくモレリオ殿と話があるからな」
「それではお部屋に案内させましょう」
モレリオの合図でそばにいた女が進み出た。アルミゲルが無言で頷くのをみて、フィデリアたちは軽く頭を下げた。
「分かりました。何かあればお呼びください」
「ああ。何日かはここにいることになる。もし退屈なら、郷の中を見てくるといい」
二人が案内されたのは、壁際に木の寝台が二つ並ぶ小さな部屋だった。それぞれの寝台には、厚い毛織の掛け布が畳んで載せられている。
寝台の脇へ荷物を下ろすと、小さな窓の向こうには、斜面に沿って並ぶ家々が見え、その下を薪を積んだ手押し車がゆっくりと通っていった。
「……フィデリア、あとで少し歩いてみない?」
窓の外を覗いていたミレイアステルが振り返ると、フィデリアも外套を脱ぎかけていた手を止めた。
「うん、そうしようか」
「何日くらいかかるのかしらね」
「どうだろうな。まあ、無事に着いたことだし、このまま何事もなく終わってくれれば一番だけど」
運ばれてきた桶に満たされた湯で、旅の汚れを落とすと、新しい服に着替えてから、二人はモレリオの邸宅を後にした。
昼の間も家の陰には霜が残っていて、山からは冷たい風が吹き下ろしてくる。
「寒くない?」
「大丈夫よ。でも、ここはもう冬の気配がするわね」
二人は、郷の入口へ続く道をゆっくりと下っていった。家々の軒下には冬に備えた薪が高く積まれ、開いた戸口の奥からは、人々の話し声が聞こえてくる。
「あ、さっきの人たちだ」
戸口から駆け出してきたのは、郷に入った時に見かけた男の子だった。少し遅れて、小さな女の子も顔を出したが、こちらは戸口から離れず、二人を見ている。
「あの鎧の人は、一緒じゃないの?」
「彼は今仕事中だよ。何か聞きたかった?」
「剣を見せてもらいたかった」
男の子が残念そうに言うので、フィデリアは思わず笑った。
「それは難しそうだ。触ったら怪我をするかもしれない」
「この子ったら、さっきからそればかり。困らせてごめんなさいね」
家の脇から母親が姿を見せ、男の子を呼び戻そうとした。腕に割った薪を抱えている母親を見ると、兄妹揃ってその後ろへ身を隠す。
「いえ、大丈夫です。……そうだな、その薪を一本もらってもいいですか?」
母親が頷くのを見て、フィデリアは束の中から小さめの薪を掴み取った。
「ちょっと待ってて」
腰から短剣を抜くと、慣れた手つきで薪を削っていく。
小さな兄妹は、いつの間にか母親の陰から離れ、フィデリアの近くで興味深く様子を見ていた。
「小さき灯、集い、漂え——灯火」
ミレイアステルが詠唱を終えると、ワンドの先に小さな灯りが浮かび上がる。薄闇が降りてきた小道に柔らかい光が広がると、子どもたちは驚きの声を上げた。
灯りを操作して子どもたちの前に浮かべてやると、妹のほうが飛び上がって触ろうとするが、魔法の灯火を掴むことはできず、すっと手がすり抜けていく。
ミレイアステルがわざとふわふわと灯りを漂わせると、兄も一緒になって追いかけ始め、辺りに甲高い声が響いた。
「——ほら、できたよ」
笑いながら息を切らせた兄妹に、フィデリアが声をかけると、男の子が「すごい!」と声を上げながら駆け寄る。
フィデリアが差し出したのは、木でできた両刃の短剣だった。
「これ、もらっていいの?」
「もちろん」
男の子は木製の剣を受け取ると、ぶんぶんと振り回し始め、妹は小さな悲鳴をあげて母親の元に駆け戻っていってしまう。
「そんなに無闇に振り回しては駄目だよ」
無造作に伸ばしたように見えたフィデリアの手には、いつの間にか木剣が握られていた。
突然手から剣が消え、男の子は不思議そうに自分の手とフィデリアを交互に見る。
「名前は?」
「ルシオだよ。あっちは妹のリリア」
「いいかい、ルシオ。武器というのは、必要になった時だけ、必要な分だけ使うんだ」
フィデリアは膝をつき、目線を男の子と合わせると、もう一度剣を差し出す。
「必要な時って?」
「君には大切な妹がいるだろう。——何かあったら、君がリリアを守ってやるんだ」
男の子は剣を受け取ると、母親にしがみつく妹を振り返った。
「……うん、分かった!」
* * *
夜の広場には火が焚かれ、それを囲むように並べられた卓には、各家から持ち寄られた料理が広がっていた。
モレリオが客人たちを迎えるために設けた宴には、郷の人々も大勢集まっていた。フィデリアとミレイアステルも席を勧められ、フォルティスたちと同じ卓についている。
焼いた肉に、蕪や豆を煮込んだ料理、厚く切られたパンが卓を埋めていき、火に温められた空気には、肉の脂や香草の匂いが混じっていた。
長椅子に腰を下ろして酒を酌み交わす人々の間を、家から料理を運んでくる者たちが行き交い、広場の外にまで賑やかな声が響いている。
「温かいうちに食べてね。ほかの料理も、まだ来ますから」
そう言ってフィデリアとミレイアステルの前に木製の皿を置いた女性は、背中に赤子を背負っていた。背中の赤子がぐずり始めても、体を揺すってあやしながら、器用に料理を盛っていく。
「お姉ちゃん!」
その声に顔を上げると、ルシオが湯気の立つ椀を両手にひとつずつ持って近づいてくるところだった。その隣には妹のリリアがパンの籠を抱えている。
「ほら、気をつけて」
ミレイアステルが立ち上がって、おぼつかない足取りのリリアを支えると、フィデリアも手を伸ばしてルシオから椀を受け取った。
「ねえ、これ見てよ! 母ちゃんが、紐をつけてくれたんだ」
ルシオは腰に吊るした木製の剣を見せびらかすようにしてフィデリアの前でくるくると回ってみせた。
「いいじゃないか、似合ってるよ」
「おい、坊主、それはどうしたんだ? ずいぶん立派じゃないか」
斜め向かいに座った老人に尋ねられると、ルシオは待ちかねていたように、フィデリアに作ってもらったのだと話し始めた。リリアも黙ってはおらず、今度はミレイアステルの魔法の話をするが、二人が一緒に話すので、何を言っているのか分からなくなってしまう。
「順番に聞かせておくれ。わしには、そんなにいっぺんに聞こえんよ」
老人が困った顔を作ってみせると、周りから笑い声が起こった。料理を運び終えた母親もその輪に加わり、子供たちの話を補いながら、二人に礼を言う。
先ほど赤子を背負っていた母親がようやく席につくと、そばの住人が椀に煮込みをよそい、ほかの者も料理の皿を次々に寄せていく。
「この麦酒は、ここで造っているのか?」
少し離れた席から、フォルティスの声が聞こえてきた。酒の壺を抱えた男に、自分の杯を示して尋ねている。
「ええ。ちょうど飲み頃になったところです」
「良い酒だ。もう一杯いただこう」
フォルティスが杯を差し出すと、男は嬉しそうに酒を注ぎ足した。モレリオも料理に手をつけながら話に加わり、やがて、フォルティスの豪快な笑い声が広場に響いた。
道中と同じく、彼は自分から周囲に話しかけ、旅先で見聞きしたことを面白おかしく語っている。その話を聞こうと、近くの者たちが顔を向けると、フィデリアの隣にいた男の子まで、食べる手を止めて耳を傾けていた。
だが、食事を終え、杯を空けてしまうと、フォルティスはあっさりと席を立った。
「さて、私は先に休ませてもらおう。明日もよろしく頼むぞ、モレリオ殿」
「こちらこそ。ゆっくりお休みください」
フィデリアたちも立ち上がりかけたが、フォルティスは片手を振ってそれを制した。
「お前たちはまだ食べているだろう。アルミゲルがいるから構わん。そのまま楽しんでいてくれ」
アルミゲルといえば、宴の中にあって、飲み物にも食べ物にも一切手をつけず、フォルティスの邪魔にならない距離で静かに佇んでいた。
さすがに周囲を威圧するようなことはなかったが、フィデリアは、その目つきに少しの油断もないことを見てとっていた。
二人が頭を下げると、フォルティスはアルミゲルを伴い、広場から出ていった。
宴はその後もしばらく続いたが、モレリオが締めの言葉を述べると、人々はそれぞれの家へ戻り始めた。どうやら片付けは明日にして、今夜はこのまま解散するようだ。
フィデリアたちがモレリオについて家に戻る頃にも、広場からは絶え間ない笑い声が響いてきた。
二人が自室に戻って扉を閉めると、ようやく静けさが訪れた。
「……思っていたより、ずっと賑やかなところだったな」
「そうね。こういう暮らしもあるんだって思ったわ」
フィデリアが外套を脱いで寝台の縁に腰を下ろすと、ミレイアステルが立ったまま何かを言いたそうにしていることに気づいた。
「ミレイ、今日は一緒に寝る?」
その言葉に、ミレイアステルは俯いてすぐには返事をしなかったが、フィデリアが「おいでよ」と少しだけ横にずれると、おずおずと顔をあげた。
「……私、子どもみたいね」
「そんなことない、そういう時だって必要だよ」




