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「……おはようございます。今日という日が、貴方にとって絶望に満ちた一日でありますように。あ、間違えましたわ。貴方の顔を見るだけで私の視力が三割ほど低下するので、なるべく視界の端で静止していてくださる?」


逃亡失敗から一夜明け。私は、ガリアーディ伯爵邸の、昨日よりもさらに豪華になった朝食の席で、目の前の「美しき災厄」に呪詛を吐きかけていた。

逃亡に失敗した代償は大きかった。私の身柄は現在、伯爵家直属の「ベリサリア専属騎士団(という名の監視部隊)」によって、二十四時間体制で守られている。守られていると言えば聞こえはいいが、要は黄金の鎖に繋がれたペットと同義だ。


「おはよう、ベリサリア。昨夜の逃亡劇による運動量の増加を考慮し、今日のメニューは高タンパク、高ミネラルな構成にしておいた。君のその、一切の衰えを見せない罵倒のキレを維持するためだ」


ヴァレリウスは、平然とした顔で最高級のツバメの巣のスープを口に運んでいる。

この男、昨夜私を壁に押し付け、「君の嫌悪こそが私の太陽だ」などという、恋愛小説でもボツにされるような恥ずかしい台詞を吐いた自覚があるのだろうか。

……あるのだ。それが一番厄介なのだ。


「……ねえ、ヴァレリウス様。一つ確認ですが。私の部屋に設置された、あの『ベリサリア語録記録官』は何かしら? 私が何か言うたびに、物凄い勢いでペンを走らせているあの不気味な黒服の集団は」


私の背後に控える、無表情な三人の書記官。彼らは私が毒を吐くたびに「……『視力が三割低下』、比喩表現。不快指数:高。極めて良好」などと小声で呟きながらメモを取っている。


「君の言葉は、私の精神を活性化させる貴重なリソースだ。一言一句漏らさず記録し、後の考察に役立てる。父上にも報告したが、非常に喜んでいたよ。『我が家の教育方針は間違っていなかった!』とな」


「親子揃って吸血鬼病の検査を受けてきなさいな。……ああ、もう。スープが冷めるわ。この高級な味が、貴方の存在という不純物のせいで、まるで下水の煮込み料理のように感じられますわ」


「そうか。ならば明日は下水を煮込んでみようか。君がそれをどう表現するのか興味がある」


「死ぬわよ、私が!!」


私はスプーンを叩きつけた。

ダメだ。真正面からやり合っても、この男は私の毒を全て「良質な栄養素」として吸収してしまう。

毒が効かないなら、どうすればいい?

私は、逃亡用の荷物に忍ばせていた、没落実家に伝わる唯一の「秘策」を思い出した。


それは、私の母……かつて「王都一の淑女」と謳われながら、父のあまりの無能さと借金に絶望して出家した母が残した、一冊の手帳に記されていた教えだ。

『ベリサリア。男という生き物は、手に入らないものほど欲しがり、手に入った途端に興味を失う生き物です。もし貴方が、しつこい男を退けたいのなら――徹底的に「つまらない女」になりなさい。具体的には、どこにでもいる、媚を売るだけの、可愛げを履き違えた人形になりなさい。お花畑に』


……これだ。

ヴァレリウスが私に執着するのは、私が「おもしれー女」だからだ。

ならば、私が「面白くない女」の極致……すなわち、彼が最も嫌悪する「自分に媚び、愛を囁き、個性を失った、ありふれた恋愛脳の令嬢」になりきれば、彼は百年の恋も一時に冷めるに違いない。


(ふふ……見ていなさい。貴方のその歪んだ好奇心を、砂糖菓子のように甘ったるい『可愛げ』で窒息死させてやるわ)


私は意識を切り替えた。

背筋を伸ばし毒を吐こうとする舌を奥に引っ込め、頬を微かに赤らめるイメージを作る。

目は潤ませ、視線は斜め下。そして、ゆっくりと顔を上げ……。


「……ヴァレリウス様ぁ」


部屋中の空気が、一瞬で凍りついた。

書記官たちのペンが止まり、伯爵邸のベテラン使用人が持っていたトレイを落としそうになる。


ヴァレリウスだけが、無表情のまま眉をピクリと動かした。


「……何だ。喉に魚の骨でも詰まったか?」


「失礼ですわねぇ、もう。……さっきは、つい、その……強がってしまいましたけど。本当は私、ヴァレリウス様に優しくされて、とっても嬉しいんですの。その……昨夜の、あのお言葉。私、ずっと胸がドキドキズッキュンしちゃって……」


私は自分の声を、これでもかと高いトーン(通称:裏声の暴力)に設定し、ヴァレリウスの袖を指先でちょんと掴んだ。

(おええええ。自分で言ってて胃酸が逆流しそうだわ。何がドキドキズッキュンよ。殺意で心拍数が上がってるだけだわ!)


「……ベリサリア。君、何かのウイルスにでも感染したのか? 脳の言語野に重大な損傷が見られる。今すぐ王立病院の精神科医を――」


「ひどぉい! 私の『愛の告白』を病気扱いするなんて! バカバカバカ。私、気づいちゃったんです。私をこんなに情熱的に求めてくれるのは、世界中でヴァレリウス様だけだって。だから……私、決めました。今日から、ヴァレリウス様好みの、おしとやかで、従順で、可愛らしいお嫁さんになりますわっ!」


私は、とびきりの(そして中身が空っぽの)笑顔を彼に向けた。

「おもしれー女」の対極、「つまらねー女」の爆誕である。


ヴァレリウスは、手にしたティーカップを机に置いた。

その動作は極めて静かだったが、彼の瞳の中の「青い炎」が、スッと消えるのを感じた。

(勝った! ほら見なさい、冷めてる! 彼の求めていた『刺激的なエラー』が消え、ただの『恋愛脳ボット』になった私に失望しているわ!)


「……なるほど。そういうことか」


ヴァレリウスが呟く。


「残念でしたわね、ヴァレリウス様。私、もう毒なんて吐きませんわ。だって貴方のことは、ただただ『愛する旦那様』として、毎日三食、愛を囁き続けて差し上げます。さあ、あーんしてくださる? このツバメの巣のスープ、愛の味がしますわよぉ」


私はスープを掬い、彼の口元に運んだ。

さあ、拒絶しなさい。私を「退屈だ」と切り捨てなさい。そして、私に多額の慰謝料を払って、この屋敷から追い出すのよ!


しかし。

ヴァレリウスは、ゆっくりと口を開け、私が差し出したスープを飲み込んだ。

そして、彼は……私の手首を、万力のような力で掴んだ。


「……ベリサリア。君という生物は、どこまで私の想像を超えていくんだ」


「なにゅ!?」


「『つまらない女』を演じることで私の興味を削ごうという、その稚拙で、かつ捨て身の戦術。……あまりに滑稽で、あまりに愛おしい」


ヴァレリウスの瞳に、先ほどよりもさらに深い、もはや漆黒に近い色が宿った。


「君は、私を嫌悪し、蔑んでいるその意識を保ったまま、必死に『私に媚びる女』を演じている。その内面の乖離、自己嫌悪による精神の摩耗……! それを間近で観察できるなど、何という至福だ。今の君の目は、死んだ魚のようでありながら、その奥で私を拒絶したいという欲望がギラギラと輝いている。これほど美しい『不協和音』を、私は他に知らない」


「……はぁ!? ちょ、ちょっと待ちなさいよ。何でそうなるのよ!」


私はたまらず、裏声を捨てて地声で叫んだ。


「ほら、出た。その剥き出しの怒り。……ベリサリア。君がどんな仮面を被ろうと、その下に隠された『私への拒絶』が、私を狂わせる。君が可愛らしい女を演じるなら、私はそれを『君が私から逃げるための必死の足掻き』として愛でよう。……いいぞ、もっとやれ。今日一日は、その気持ちの悪い演技に付き合ってやる」


「気持ち悪いって言ったわね!? 貴様! 私がどれだけ精神を削ってこのキャラを作ったと思ってるのよ! この無関心のゴミ! 冷凍保存されたサイコパス! 貴方の情緒、もう破壊するどころか、一度粉々にして地獄に放流した方がいいわ!」


「素晴らしい。やはり、君の罵倒こそが最高のメインディッシュだ」


ヴァレリウスは、私の手首に口づけをした。

その冷たい感触に、私は全身の毛穴が逆立つような感覚を覚えた。

……ダメだ。

この男、無敵だ。

「ツン」も「デレ」も、ましてや「偽りのデレ」ですら、全てが彼という巨大なブラックホールに吸い込まれ、彼の「歪んだ愛」を増幅させるエネルギーに変換されてしまう。


……お母様、助けて。この人、もう人間じゃない。人間を模した、毒を食べる怪物だわ。


「おっと、ベリサリア。日報に新しい項目を追加しておいたよ。『若旦那、ついにベリサリア様の演技力にまで惚れ込む』とね。ボーナスをさらに二割乗せておこう」


背後で、いつの間にか現れた伯爵が、ホロリと涙を流しながら拍手していた。

この屋敷には、私の味方は一人もいない。

金はある。飯はうまい。ドレスは豪華だ。

だが私の精神は今、かつてないほどの危機に瀕していた。


(……いいわ。こうなったら、最終手段よ。彼が『合理的』であることを誇りに思っているなら、その合理性を根底から覆すような、最高に『非効率』で『無意味』な地獄を見せてやるわ)


「ヴァレリウス様。……覚悟なさって。私、決めましたわ。貴方を、この世で一番『惨めで、情けなくて、非合理的な男』に叩き落として差し上げます。金なんていらな……いえ、金はもらいますけど! 貴方のその冷徹な顔が、屈辱と混乱でグッチャグチャになるまで、私は絶対に諦めませんから!」


「ああ。期待しているよ、我が愛しのエラー令嬢」


ヴァレリウスの、どこまでも澄み切った、しかし狂気に満ちた笑みが、朝の光に照らされていた。


私の「おもしれー女」大作戦。

それは今、金とプライド、そして「どちらが先に発狂するか」を競う、終わりなきデスマッチへと変貌したのである。

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