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まったく恋愛に興味のない伯爵子息の恋愛観を規正すべく、伯爵に雇われ、政略結婚相手として潜入することになりました。  作者: 逆立ちハムスター


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「……殺して。いっそ私をひと思いに、このシルクの紐で絞め殺して頂戴」


夜会当日。私は鏡の前で、三度目の死を覚悟していた。

今日の装備は、伯爵が「我が家の威信をかけた」と豪語する、夜会用のドレスだ。

昨日までのものが「拘束具」だとしたら、これは「移動式アイアン・メイデン(鉄の処女)」である。腰を極限まで絞り上げ、胸元をこれでもかと強調し、裾には数えきれないほどの宝石が縫い付けられている。


「何を仰るのです、ベリサリア様。今夜は貴女様が『ガリアーディ家の婚約者候補』として初めて社交界に姿を現す、歴史的な夜なのですから」

「歴史的? そうね、私の死因が『過度な虚栄心による窒息死』として新聞ギロチン・タイムズに載るかもしれないわね」


私はメイドの手を借りて、なんとか馬車に乗り込んだ。

隣には、漆黒の夜会服に身を包んだヴァレリウスが座っている。

月光を反射する銀髪、冷たく研ぎ澄まされた美貌。彼は、自分が「今夜、王都中の女性の心臓を無自覚に破壊する」という事実を、これっぽっちも気にかけていないようだった。


「……なんだ。その、内臓をすべて吐き出しそうな顔は」


「褒め言葉として受け取っておきますわ。貴方こそ、相変わらず冷解凍を繰り返した永劫回遊の殉教魚エターナル・プレデターのような血色の悪さですこと。そんな顔でエスコートされたら、私が隣で喪主でも務めているのかと勘違いされますわよ」


「ふん。観察対象が華やかに飾られているのを見るのは、悪くない気分だ。たとえその中身が、金貨の音にしか反応しない計算機だったとしてもな」


「あら、計算機の方が、貴方の薄っぺらな『高潔さ』よりよっぽど誠実で役に立ちますわ」


馬車が王宮の正面玄関に到着する。

扉が開いた瞬間、眩いばかりの光と、鼻を突くような香水の混ざり合った臭いが押し寄せてきた。

私は「プロの仮面」をペタリと貼り付けた。口角を数ミリ上げ、目は一切笑わず、しかし周囲には「高嶺の花」と思わせる絶妙な不遜さを漂わせる。


「……見ろ、ガリアーディ家の若旦那だ」

「隣の女は誰? ヴォアザン家の……あの没落寸前の?」


喧騒が波のように広がる。

私たちは赤絨毯の上を、さながら戦場に赴く将軍のような足取りで進んだ。

ヴァレリウスが私の腰に手を添える。その指先が氷のように冷たくて、私は思わず彼の耳元で囁いた。


「手を退けてくださる? 貴方の冷え性のせいで、私の体温が奪われて燃費が悪くなりますわ」


「黙れ。これは演出だ。貴族の夜会は、いかに効率よく『嘘』を並べるかのコンテストなのだからな」


会場の中央に進むと、そこには一際煌びやかな一団がいた。

中心にいるのは、この国の第二王子、ルシアン・ド・ヴァロア。

「王国の至宝」と謳われる美貌を持ち、女の扱いに関してはプロを自称する、これまた別の意味で頭の痛い人種だ。


「やあ、ヴァレリウス。君が夜会に女性を連れてくるなんて、天変地異の前触れかな? それとも、ついにその氷の心臓を溶かす太陽を見つけたのかい?」


ルシアン王子が、キザな仕草で私の手を取り、指先にキスをしようとした。

私は、コンマ一秒の迷いもなく、その手をシュッと引き抜いた。


「失礼。王子様。私の手は、貴方の高価な唾液で汚されるためにあるのではありませんの」


会場が凍りついた。

王子の側近たちが息を呑み、ヴァレリウスが微かに口角を上げたのを、私は見逃さなかった。


「……おや。これは手厳しい。ガリアーディの新しい婚約者は、随分と野性的なバラのようだね」


「バラ、ですか。そんな古臭い例え話は、十年前の恋愛書物の中に置いてきたらよろしいのに。王子様、貴方が今夜、私に向けているその『慈愛に満ちた眼差し』……。鏡で練習されたのでしょう? 左右の口角の高さが1ミリほどズレていますわよ。努力の跡は見えますが、いかんせん作為的すぎて、見ていてこちらが恥ずかしくなりますわ」


ルシアン王子の完璧な笑顔が、ピキリと音を立てて割れた。


「……はは、面白い。君、名前は?」


「ベリサリア・ド・ヴォアザンです。王国の税金を、このような無意味な電飾と酒代に変換する工程を、心から嘆いている一介の男爵令嬢に過ぎません」


「ベリサリア……。ああ、あの、貴族とは名ばかりの。なるほど、ヴァレリウス。君が彼女に執着する理由がわかったよ。彼女は……『おもしれー女』だ」


私の脳内で警報が鳴り響いた。

王子という最高権力者からの「おもしれー女」認定。神々恋愛の愛読者の一人だろう。

通常なら嫉妬に狂った令嬢たちに虐められ、最後は王妃にまで登り詰める、あの忌々しいストーリーだ。


だが私はプロだ。

報酬を払っているのはガリアーディ伯爵であり、この王子ではない。


「王子様。一つ訂正させていただけますか?」


「何かな、謎の可愛い小鳥」


「『おもしれー』のは、私ではなく、貴方のその、誰にでも通用すると思っている安っぽいカリスマ性の方ですわ。私を『小鳥』と呼ぶのはおやめなさい。貴方のその香水の匂い、鳥なら即座に呼吸不全で墜落するレベルの濃度ですもの」


私は凍りついた王子を放置して、給仕が持っていたトレイからシャンパングラスを奪い取った。

そのまま一気に飲み干す。美味い! 中身は……安物の発泡酒ではない、本物の最高級品だ。


「ヴァレリウス様。ノルマは達成しましたわね。王子のプライドを粉砕し、社交界の空気を一気に葬式会場に変えました。これで今夜のボーナスは二倍にしていただきますわよ」


「……ふ。君は本当に、計算に妥協がないな」


ヴァレリウスが、あろうことか私の髪に優しく触れた。

その瞳には、今までになかった「愉悦」がはっきりと灯っている。

それは恋などという甘っちょろいものではない。

自分と同じ毒を持つ生き物を見つけた、捕食者の連帯感だ。


「いいだろう。ルシアン。彼女は私の『獲物』だ。横取りしようなどとは考えないことだ。君には、その香水に耐えられる、もっと脳の構造が単純な令嬢たちが似合っている」


「……ヴァレリウス、君、本気なのか?」


王子の問いかけに、ヴァレリウスは答えず、私を連れてダンスフロアへと向かった。

音楽が始まる。

私はドレスの重さに毒づきながら、彼の氷のようなリードに従ってステップを踏む。


「……一つ聞きたいのだが。ベリサリア」


ヴァレリウスが踊りながら私の耳元で囁いた。


「なんですの。ステップを間違えたら、その高い靴で足の甲を粉砕しますわよ」


「君が先ほど、王子に言ったことだ。……『私の中身には一ミリも興味がない』と言ったのは、本心か?」


「ええ、本心ですわ。昨日も言いましたでしょう。私が愛しているのは貴方の資産と、支払われる妻向けのお給料だけ。貴方のその、中身が詰まっているのか空っぽなのかも怪しい『人格』には、興味を持つだけ時間の無駄ですもの」


「そうか」


ヴァレリウスが、ふっと小さく笑った。

それは、彼が生まれて初めて見せた、人間らしい「笑み」だったのかもしれない。

だが、その笑みはひどく歪んでいて、そして……底知れない執着を感じさせた。


「ならば、その『無関心』をどこまで維持できるか、試してみたくなった。君が私の金のために、どれほど私の毒を飲み干せるのか。あるいは、私が君を……」


「……私が、何ですって?」


「いや。なんでもない。ただの、非論理的な仮説だ」


(……何よ、今の間は。不気味だわ。御曹司のくせに、急に二流の吟遊詩人みたいな真似しないで頂戴)


私は彼の胸板を軽く突き放し、不敵に笑い返した。


「せいぜい頑張ることね、剥製の旦那様。私の心は、貴方の持っているどんな宝石よりも硬くて、価値がないんですから。……さて、ダンスが終わったら、次はあちらのフォアグラのパテを全種類制覇しに行きますわよ。人目を気にするなんて概念は私には無いですから。他人の金で食べる最高級食材こそ、私の唯一のときめきですもの」


夜会は続く。

周囲の刺すような視線、王子の混乱、そして、隣にいる「死んだ魚の目をした美形」の、熱を帯び始めた視線。

それらすべてを金貨の音に変換しながら、私は優雅に、そして猛毒を撒き散らしながら、社交界という名の戦場を闊歩していく。


「おもしれー女」を演じているつもりが、いつの間にか「一番危険な女」としてマークされていることなど、今の私はまだ、知る由もなかった。

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