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「……重い。うざい。死ぬ。これ、ドレスじゃなくて鉛の塊か何かですか?」
翌朝、私は鏡の前で、自分の人生の選択を後悔していた。
正確には、このガリアーディ伯爵邸が用意した「婚約者候補用」のドレスという名の拘束具に対してだ。
フリル、レース、刺繍。その一つ一つに職人の血と涙と、そして私への殺意が込められているに違いない。私は動きやすさ、快適さ、平民が良く着る実用的なドレスの方が合理的で好きだ。
「お静かに、ベリサリア様。これは王都でも最高級のシルクと、希少なロイヤルロック(巨鳥)の抜け羽をふんだんに使用した逸品でございます」
「ロックの羽? 道理で。今にも空へ飛んでいけそうな軽やかさ……ではなく、重力加速度に負けて膝が笑っていますわよ、メイドさん。これ一着で、我が実家の屋根が何枚直せると思っているの?」
私は鏡の中の「着せ替え人形」を冷めた目で睨みつけた。
外見だけを見れば、どこからどう見ても可憐な令嬢だ。没落寸前の男爵家という「真実」が、かえって儚げな美しさを演出している。
だが、その中身は今、昨夜食べた高級ステーキの消化効率と、今日の労働対価の計算で埋め尽くされている。
「さあ、若旦那様がお待ちです」
背中を押されるようにして、私は再びあの庭園へと送り出された。
今日のヴァレリウスは、昨日の芝生の上ではなく、見事なまでに手入れされた白亜のガゼボ(東屋)にいた。
その前には、三段重ねのアフタヌーンティー・スタンド。
……出たわね。世界恋愛における「攻略の聖域」、ティータイム。
「遅い。予定より三分と十二秒超過している」
ヴァレリウスは懐中時計も見ずにそう吐き捨てた。
彼は相変わらず、人間を検品するような冷徹な瞳を向けてくる。
「申し訳ありませんわね。この呪われた装備……いえ、ドレスの装着に時間がかかりましたの。何しろ、肋骨を三本ほど供物に捧げないと着られない構造なものですから」
私は彼の向かいにドカリと座り、優雅さの欠片もなくスコーンを手に取った。
そのまま一口。パサつく。紅茶を流し込む。至極、軽食として効率が悪い食べ物だ。
「……君は、マナーという概念を母親の胎内に置いてきたのか?」
「マナー? ああ、あの『食べにくいものを無理やり格好つけて食べる』という、貴族特有の非効率な儀式のことですか? ヴァレリウス様こそ、そんなに背筋を伸ばして、背骨に定規でも入っているのかしら。あ、そういえば貴方は剥製でしたわね。失礼いたしました」
ヴァレリウスの持つティーカップが微かに揺れた。
彼は紅茶を一口含むと、不快そうに目を細めた。
「昨日から気になっていたが、君の言葉には『情緒』というものが一切含まれていない。父上は君を『愛を教える存在』だと言っていたが、今のところ君は、私の脳の不快中枢を刺激するノイズでしかない」
「あら、それは光栄ですわ。ノイズでも何でも、貴方の平坦な脳波に波形を作れたのなら、私の義務は半分達成されたも同然。愛、ですか? そんな脳内の化学物質の暴走を期待しているのなら、媚薬でも飲んでそこら辺の壁にでも恋をしていればよろしいのに」
私はわざとらしくため息をつき、スタンドの二段目にあるサンドイッチをトリプル取りした。そのまま大きく頬張る。
「だいたい、モグモグ……。貴方のような、モグモグ……『歩く百科事典』に恋をしろという方が無理難題ですわ。ゴクリ……。顔はいいけれど、中身は砂漠。話せば毒。私のような金目的の政略女ですら、貴方との結婚生活を想像しただけで、老後まで待たずに孤独死する自信があります」
「……金目的、だと? 否定しないのか」
「否定する理由がどこに? 私は貴方の資産と、伯爵が提示した結納金を愛しています。貴方という個体については、今のところ『観察対象としてのサンプルB』程度の認識しかありませんわ」
ヴァレリウスは、静かにカップを置いた。
その瞬間、彼の瞳に宿ったのは、怒りではなく「純粋な知的好奇心」という名の、非常に厄介な光だった。
「面白い。これまでの女性は皆、私の資産や家柄を隠れ蓑にし、その実、私自身の『関心』を引こうと躍起になっていた。だが、君は私を明確に拒絶しながら、私の所有する『価値』だけを直視している。極めて合理的で、かつ醜悪だ。生物として非常に興味深い」
(よし、きた。典型的な『おもしれー女』の第二段階……「自分に興味がない女に、知的好奇心から執着し始める」フェーズね。計画通りすぎて、逆に全力お辞儀したくなるわ)
私は心の中でガッツポーズを決めつつ、顔には最大限の嫌悪感を張り付かせた。
「観察するのは勝手ですが、覗き見料は別料金ですわよ。ところで、そんなに観察がお好きなら、あちらの茂みに隠れている『観察者』の皆さんも仲間に入れて差し上げたら?」
私が視線を向けると、ガゼボを囲む薔薇の生垣がガサガサと揺れた。
そこから現れたのは、華やかなドレスに身を包んだ三人の令嬢たちだった。
……ああ、やっぱりね。
この手の物語には欠かせない「取り巻きを引き連れた自称・婚約者候補筆頭」の皆さんだ。
「……あら、ヴァレリウス様。こんな身元の怪しい、マナーも知らないお転婆さんとお茶会なんて、お労しいですわ」
先頭に立つのは、縦ロールの金髪が眩しいレティシア公爵令嬢……たぶん。
彼女は私を一瞥し、扇子で口元を隠しながら、これまた恋愛白書通りの高笑いを決めた。しかし、頭に葉っぱが乗っている。
「ヴォアザン男爵家のベリサリアさん、でしたかしら? 貴方のような超没落貴族が、ガリアーディ家の敷居を跨ぐなんて、何の冗談かと思いましたわ。今すぐその薄汚い足を引いて、実家の泥水でもすすりにお帰りなさい!」
「……薄汚い? 失礼ね。今朝、伯爵邸の最高級石鹸で無駄に三回も洗ったわよ。おかげで肌がキュッキュッ言ってるわ」
私はヴァレリウスを見た。
彼は、まるで動物園の檻の外で繰り広げられる小競り合いを眺めるような、退屈極まりない顔をしている。
助ける気はゼロ。むしろ、「さあ、どう切り抜けるんだ?」と期待の眼差しすら向けてきている。
私はゆっくりと立ち上がり、レティシアの前に歩み寄った。
そして、彼女の頭からつま先までを、じっくりと、値踏みするように眺めた。葉っぱが気になるけど。
「……な、なによ……その目は! み、身分をわきまえなさい!」
「いえ。あまりにも見事な『テンプレ悪役』の造形に、感動していたところですわ。レティシア様とおっしゃいましたか? その縦ロール、維持するのに毎朝何時間かけていらっしゃいますの? 貴方のその努力が、知性や教養ではなく、他人を貶めるための語彙力に全振りされているのが、不憫でなりませんわ」
「な、なんですって!?」
「お聞きになって? ヴァレリウス様。彼女のような方をこそ、貴方は観察すべきですわ。他人の評価に依存し、家柄という化けの皮を剥がせば中身は空っぽ。ただ吠えるだけの、美しく装飾された小型犬。……あ、失礼。小型犬に謝りますわ。彼らはもっと賢くて愛らしいですもの」
「貴女、自分が誰に口を叩いているのか分かっているの!!」
レティシアが顔を真っ赤にして叫ぶ。
私は彼女の耳元に顔を近づけ、周囲に聞こえないような低い、しかし確実に刺さる声で囁いた。
「分かっていますわよ。自分が愛されていないことを認めたくなくて、格下の私を叩くことでしか自尊心を保てない、哀れな婚約者候補・敗北確定済み(予定)の令嬢様。……そんなに彼が欲しいなら、差し上げましょうか? 私は彼の中身には一ミリも興味ありませんから。でも、残念。今の彼が『面白い』と思っているのは、貴方の高価な香水の香りではなく、私の放つ不快な毒なんですの。お気の毒に」
「あ……あああ……っ!」
レティシアは屈辱に震え、そのまま涙を流して走り去っていった。
取り巻きたちも、蜘蛛の子を散らすように彼女を追いかけていく。
静寂が戻ったガゼボで、ヴァレリウスがパチ、パチ、とゆっくり手を叩いた。
「見事だ。言語による暴力の芸術だな。彼女の精神構造を、わずか数分で完全に崩壊させた。まるでミスター・ホワイ(有名な哲学者)のような洗練さだ」
「暴力だなんて人聞きが悪い。私はただ、彼女に不足していた『客観的な自己評価』をプレゼントしただけですわ。さて、ヴァレリウス様。余興は終わりです。私の労働時間もそろそろ限界ですので、今日の分の日報を書いてもよろしいかしら?」
「日報?」
「ええ。伯爵に提出するんですの。『本日、息子の無関心を三回打破し、害虫を一匹駆除。成果は良好』とね」
私はヴァレリウスに背を向け、大股で歩き出した。
背後から、低く、愉悦に満ちた声が聞こえてくる。
「ベリサリア。明日は夜会だ。そこで君が、社交界という名の肥溜めにどれだけの毒を撒き散らすのか……楽しみにしているぞ!」
私は振り返らず、中指を立てそうになるのを必死に堪えた。
(肥溜めって。自分の生活圏をそう呼ぶあたり、この御曹司も相当末期だわ。……ああ、早く自室に戻って、このクソ重いドレスを脱ぎ捨てたい! そして、伯爵からの特別ボーナスをうししと数えたい!)
私の「おもしれー女」大作戦。
順調すぎて、逆に自分の胃に穴が開きそうだった。




