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どうも、おもしれー女です。
今日からよろしくお願いしますね。
……なんて、そんなふざけた挨拶を、私は鏡の中の自分に向かって、心の中でバカバカしく練習していた。
いや、ふざけているのは私ではなく、この国、いいえ、世界そのもの。あるいは私の銀行残高のほうだ。
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「いいか、ベリサリア。君に期待しているのは、唯一、たった一つだ。あのアホ面……失礼、我が愛すべき、しかし徹底的に人間味の欠落した息子、ヴァレリウスを『おもしれー女』と唸らせることだ」
目の前で、この国の経済を牛耳る重鎮の一人、ガリアーディ伯爵が、ハンカチで額の汗を拭いながら熱弁を振るっていた。
豪華絢爛な応接室。置いてある壺一つで、私の実家――没落という名の急斜面を転げ落ち、今や崖っぷちで爪を立てて耐えているヴォアザン男爵家――が三回は買い戻せるだろう。
「伯爵様。確認ですが、私は令息の『教育係』ではなく、『婚約者候補』として雇われるのですよね?」
「そうだ。名目は政略結婚。だが実態は、あやつの凍り付いた情緒を破壊するための特攻兵器だ」
特攻兵器。貴族の令嬢に向けられる言葉としては最低の部類だが、提示された報酬額を見た後では、聖女への賛辞にすら信託(神託)の如く聞こえた。
私の役割はシンプルだ。
巷でブームの恋愛哲学文献(神々の恋愛観)の中で流行っている、あの「高慢な神が、自分に媚びない人間の女に、なぜか惹かれてしまう」という、脳内に花畑が詰まったような現象――通称「おもしれー女」現象を、人為的に引き起こすこと。
ヴァレリウス・フォン・ガリアーディ。
伯爵家の嫡男であり、次期当主。類まれなる美貌と知性を持ちながら、あらゆる感情をマザーマシンのどこかに置き忘れてきたと言われる男。
彼は女性はおろか、人間そのものに興味がない。彼にとって他人は「二本足で歩き、無意味な音を発するタンパク質の塊」でしかないらしい。
「承知いたしました。愛でも恋でも、あるいは殺意でも、ご希望の感情を彼の脳内に叩き込んで差し上げましょう」
「頼む。あやつが『恋愛なんて時間の無駄だ』と書き記した論文を、私の目の前で破り捨ててくれればボーナスを百倍上乗せしよう」
私は伯爵と固い握手を交わした。
私の心は、一ミリもときめいていない。ときめくわけがない。
これから始まるのは、甘い恋の駆け引きではなく、高給取りの派遣令嬢による、クライアントのバグ修正作業なのだから。
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翌日。私はガリアーディ伯爵邸の広大な庭園にいた。
そこには、陽光を浴びてキラキラと輝く、非現実的なまでに整った顔立ちの男が突っ立って……いえ、いま座った。
彼が、ターゲットのヴァレリウスだ。
白磁のような肌、冷徹な理性を象徴するような銀髪、そして、深海よりも深く、生命感の一切ない青い瞳。
彼は膝の上に厚い学術書を広げ、こちらを見ようともしなかった。
「……本日より、貴方の婚約者候補として参りました。ベリサリア・ド・ヴォアザンです」
私が淑女の礼を完璧にこなすと、彼はようやく、スローモーションのように視線を上げた。
その目は、路傍の石ころを鑑定するような、ひどく無機質なものだった。
「ヴォアザン……ああ、あの。借金を返すために娘を切り売りしに来た、例の零細男爵家か。ご苦労なこった」
第一声がこれだ。
普通ならショックで泣き出すか、怒りで震え出す場面だろう。或いは、投資(闘志)に燃えるか。
だが、私の脳内にある「毒舌検閲官」は、冷徹に彼の発言を分析する。
(なるほど。語彙は豊富だが、コミュニケーション能力はドブ川に捨ててきたようね。その顔面偏差値の高さが、性格の歪みを余計に際立たせている。まるで、最高級のクロコダイルの皮で包んだゴミ箱だわ)
「お褒めにあずかり光栄ですわ。切り売りされる側にも、それなりのプライドと値札はついておりますの。ところで、その本……『有機化合物の分解プロセスと土壌への影響』ですか。婚約者との初対面で読むには、少々殺風景では御座いませんか? それとも、私をさっさと分解して土に還したいという暗喩かしら」
ヴァレリウスの眉が、ピクリと動いた。
彼は本を閉じ、私を上から下まで、失礼極まりない視線で舐めるように見た。
「期待外れだ。父上は『刺激的な女性を用意した』と言っていたが。君も、これまでの女たちと同じだろう? 私の顔を見て、声を聞き、そのうち『私だけは貴方の孤独を理解できる』などと、根拠のないくだらない妄想を垂れ流し始める。実に非合理的で、反吐が出るほど退屈だ」
「退屈、ですか。それは重畳。私も、貴方のその『私はすべてを悟っています』と言わんばかりの、エレメンタル冷凍された死体のような表情には、欠伸を噛み殺すのに苦労しておりますの。鏡をご覧になったことは? 貴方の顔、造形は美しいですが、いかんせん生命活動が感じられません。まるで、剥製師が気合を入れて作った失敗作のようですわ」
静寂が流れた。
背後に控えていた侍従たちが、顔を青くして震えているのがわかる。
貴族社会において、このガリアーディ家の嫡男に、ここまで真正面から罵詈雑言を叩きつけた令嬢はいないだろう。
ヴァレリウスは、ゆっくりと立ち上がった。
長身の彼に見下ろされると、蛇に睨まれた蛙のような気分になる――はずだった。
だが私は、彼の瞳の中に、一滴の「不快感」という感情が混じるのを、逃さず見極めていた。
「……君は、自分が何を言っているのか理解しているのか?」
「ええ。貴方の尊大な自尊心に、少しばかり現実という名の泥水をぶっかけただけですわ。そもそも、恋愛に興味がないとおっしゃる割に、随分と他人の評価を気にされるのですね。それとも、自分が誰からも否定されない安全圏で、温々と『孤独な天才』を気取っていたいだけかしら? 寒気がするほど幼稚で、お笑い草ですわね」
私はふん、と鼻で笑い、彼に背を向けた。
これだ。これが「おもしれー女」メソッド・その一。
「権力者に媚びず、むしろ徹底的に貶めることで、相手の予測範囲外に自分を置く」
私は既に、心の中でボーナス支給額の計算を始めている。
「ま、待て」
ヴァレリウスの声が、少しだけ低くなった。
私は振り返らずに言った。
「なにか? 分解プロセスの続きでも聞かせてくださるの?」
「い、いや。君……ベリサリアだったか。名前を覚えるに値する、特異な個体だと……判断した。明日の朝、またここへ来い。君のその……支離滅裂な思考回路を、より詳しく観察してやる」
(よし、食いついた!)
私の脳内で、金貨がジャラジャラと音を立てて、二足で歩き私に媚び平伏す。
だが、表に出すのは冷徹な、そしてどこか面倒くさそうな微笑だ。
「観察〜、ですか。どうぞご自由に。ただし、私の観察料は高いですわよ? ガリアーディ家の金庫が空にならないよう、せいぜい節約なさることね。それでは、ご機嫌よう。死体のような若旦那様」
私は優雅に、かつ一瞥もくれずにその場を去った。
心の中では、自分自身に対して盛大なツッコミを入れていた。
(何が『特異な個体』よ。ただの金欠女の背伸びだっての。あー、喋り過ぎて喉が乾いた。あのアホ面を罵倒するのに、意外と肺活量を使ったわ。伯爵、見てました? 今の、完璧な『おもしれー女』ムーブでしたわよね? さあ、早く初日ボーナス報酬を振り込んで頂戴!)
こうして、私の「規正」という名の集金業務が幕を開けた。
愛だの恋だの、そんな不確かなもので腹は膨れない。
私は絶対にときめかない。
たとえ彼が、その後、私の後ろ姿をこれまで見たこともないような、奇妙に歪んだ目で見つめていたとしても。
「……面白い。スペル(魔術)エラーの塊のような女だ」
ヴァレリウスが小さく呟いたその言葉を、私はまだ知らない。
知ったところで、言うことは決まっている。
「エラーなのは、貴方の存在そのものですわよ」と。でも、今日の業務はこれでおしまい。




