第4話:(後編)増殖する蔵の秘密
「結! 床板が伸びとる! うちの足元、さっきから一歩も進んでへんぞ!」
凛が焦燥した声を上げ、バールを床に突き立てた。
三人が歩むそばから、古い栗材のフローリングが細胞分裂のように増殖し、出口までの距離を無限に引き延ばしていく。
蔵の内部はすでに、外観からは想像もつかない巨大なホールのような空間へと変貌していた。
「……陽葵、音を。……この空間の『心臓』はどこですか?」
結は揺れる眼鏡を指で押さえ、周囲を鋭く見渡す。
「……聞こえますわ。ドクン、ドクン……って。この奥、突き当たりの壁の向こう。……『もっと広くなりたい』、『もっと完璧になりたい』という、家の……悲鳴のような渇望が!」
陽葵が指差した先。暗闇の奥に、不自然に浮き上がった「床の間」のような空間があった。
そこには、一束の古びた和紙が、まるで祭壇に供えられているかのように置かれている。
結は迫りくる壁を避け、その和紙を手に取った。
それは、明治時代に書かれたと思われる、この蔵の「増築計画図」だった。
「……やはり。これですね。……この蔵の先代の主は、蔵をただの物置ではなく、独立した『離れ』として完成させようとしていた。ですが、図面は途中で途切れ、建築は未完のまま主が亡くなった」
結は懐中電灯で図面を照らす。
そこには、無理やり引き伸ばされた廊下や、左右非対称な柱の配置など、構造的に「破綻」した設計が書き殴られていた。
「この蔵は、主の遺志を継いで自力で『完成』しようとしていた。……ですが、設計図が間違っている。だから、終わりなく無秩序に増え続けるしかないんです。……がん細胞と同じ、構造の暴走です」
「……結、理屈はわかった! でも、どうやって止めるんや! 壁が閉じてくるで!」
凛が叫ぶ。左右の壁が、三人を押し潰そうと徐々に迫ってきていた。
「凛、陽葵。時間を稼いでください。……三分。……三分で、この蔵を『完成』させます!」
「無茶言うな! ……陽葵、やるで! 【四方の柱、地の底まで根を張れ。我が領域、寸分たりとも動かすべからず】!!」
凛が四隅に清め塩を叩きつけ、ジャッキアップ用の油圧器具を壁の間に噛ませる。
ギチギチと、鋼鉄と木材が軋み合い、火花が散る。
「【光の鎖よ、荒ぶる空間を縛り上げなさい】!!」
陽葵が数珠を掲げ、光の糸を張り巡らせる。
その中心で、結はカバンから製図用のホルダーを取り出した。
彼女は、未完の図面の上に、迷いのない筆致で線を書き加えていく。
「……無駄な廊下を削除。……荷重のバランスを考え、中央に『芯柱』を仮想配置。……増殖のエネルギーを、屋根の『棟』へと逃がす。……よし」
結が図面の最後に、自らの一級建築士としての印鑑を力強く押した。
「……一級建築士、九条結。……この蔵の設計変更、及び『竣工』を承認します!」
その瞬間。
図面から青白い光が溢れ出し、蔵全体を包み込んだ。
地響きのような音が鳴り響き、無限に伸びていた廊下が、逆再生のビデオのように縮んでいく。
迫っていた壁は元の位置へと退き、芽吹いていた余分な柱は塵となって消えていった。
……パサリ。
結の手の中にあった図面が、役目を終えたかのように灰となって崩れ落ちた。
静寂が戻った。
気がつくと、そこは元の、わずか十畳ほどの静かな蔵の中だった。
「……はぁ。死ぬかと思ったわ。……結、あんた、霊を『図面』で黙らせたのか?」
凛がバールを杖代わりにして、肩で息をつく。
「……黙らせたのではありません。……『納得』させただけです。……建物は、完成することを望んでいるものですから」
結は乱れた衣服を整え、何事もなかったかのように出口へと歩き出した。
***
数日後。
前田家の蔵は、増殖を止め、母屋との距離も元通りになった。
結の提案により、内部は「先代の主の遺品を飾るギャラリー」として美しく改装された。
母屋に侵食しようとしていた「成長痛」は消え、蔵は今、穏やかに主の思い出を守っている。
「……ありがとうございました、九条さん。蔵が落ち着いてから、亡くなった祖父が夢枕に立って、『やっと家になった』と笑っていたんです」
前田さんが感謝を述べ、三人を送り出した。
帰り道の軽トラックの助手席。
結は、タブレットで次の現場の図面をチェックしていた。
「……ふぅ。今度の蔵は、なかなか骨がありましたね。……でも、あの休日の中途半端なナンパ男よりは、よっぽど筋が通っていました」
「あはは、まだ根に持ってるんですの? あのモデルルーム男のこと」
陽葵がクスクスと笑う。
「……当然です。建築を誘い文句に使うなら、せめて断熱材の種類くらい答えてほしかった。……凛、次は?」
「次は……『夜な夜な自分の遺影をリフォームする幽霊』がおる、写真館や。……これまた、結のこだわりとぶつかりそうやなぁ」
「……『勝手なリフォーム』。……それは万死に値しますね」
結の目が、眼鏡の奥で鋭く光った。
九条工務店。
彼女たちの設計図は、生者と死者の境界を今日も引き直していく。




