第4話:(前編)増殖する蔵の秘密
日曜日の午後。上野にある国立博物館の一角で開催されている『近代建築模型展』。
精巧に作られた一〇〇分の一スケールの歴史的建造物が並ぶ中、九条結は一軒の洋館模型の前で、石像のように固まっていた。
「……ふむ。この急勾配の屋根、ドーマー窓の配置。当時の職人は、雨仕舞に相当苦労したはずです。それなのに、この破綻のない美しさ。……抱きしめたいほどの構造美です」
結は、ピンとはねた後れ毛一本乱さず、ブツブツと独り言を漏らしていた。彼女にとって、これは至福の休日である。
そこに、香水の匂いを漂わせた一人の男が近づいてきた。仕立ての良いスーツを着た、自称エリート風の男だ。
「お一人ですか? 熱心に見ておられるから、つい声をかけてしまいました。建築、お詳しいんですか?」
結は視線を模型から外さず、事務的に答えた。
「職業ですから。何かご用でしょうか」
「はは、冷たいなぁ。僕は不動産投資を少々やっていましてね。港区にいくつかマンションを持っているんですが、良ければ今度、僕の自慢の最上階を見に来ませんか? 内装にも拘っているんですよ」
男は自信満々に微笑み、結の肩に手を置こうとした。
その瞬間、結はゆっくりと首を巡らせ、男の顔ではなく、その『背後の空間』をジッと見つめた。
「……マンションの前に、あなた自身の『管理状態』をどうにかされた方がよろしいかと」
「え? 僕の管理?」
「ええ。あなたの右肩に、戦後間もない頃の地主と思われる、非常に血色の悪い老人がしがみついています。……どうやら、あなたが強引に進めている土地買収の境界線トラブルについて、相当お怒りのようです。あ、今、あなたの耳を噛もうとしていますよ」
「は……? 何を……」
「ちなみにその霊、構造的にあなたの頸椎にかなりの負荷をかけていますね。このまま放置すると、物理的な地盤沈下――つまり、首が回らなくなります。私の仕事は『建物』のリフォームですので、人間の除霊は専門外です。お引き取りを」
結が無表情のまま淡々と告げると、男は顔を土気色に変えた。
「……っ、気色の悪い女だな!」
男は捨て台詞を吐き、脱兎のごとく逃げ出していった。
結はふぅ、と小さく溜息をつき、再び模型に目を戻した。
「……失礼な人。模型の縮尺誤差について議論したかっただけなのに」
そんな彼女のスマートフォンが、無慈悲なバイブ音を響かせた。
画面には『凛(現場)』の文字。
「……休日が、終了しましたね」
***
結が急行したのは、郊外にある広大な敷地を持つ資産家、前田家の屋敷だった。
門をくぐると、作業着姿の凛と、困り顔の陽葵が待っていた。
「結! 休み中悪いな。でもこれ、ちょっと見てくれ。気味が悪すぎるんや」
凛が指差した先。母屋の離れにある、重厚な白壁の蔵。
「……蔵、ですか?」
「そう。一見普通やろ? でもな、依頼主の前田さんの話やと、この蔵……昨日より『一尺(約三十センチ)』だけ、母屋に近づいとるんや」
結は眼鏡を押し上げ、地面を確認した。
「引きずった跡はありませんね。基礎ごと移動した形跡も……」
「そうなんです。でも、陽葵ちゃんの耳には、変な音が聞こえるみたいで……」
陽葵が蔵の壁に耳を当て、震える声で言った。
「聞こえるんです。ミシミシ、パキパキ……って。まるでお砂糖の結晶が育つような、何かが無理やり『成長』しているような音が。……結ちゃん、この蔵、生きていますわ」
結は蔵の周囲を一周した。
凛が鼻をヒクつかせ、顔をしかめる。
「匂いもおかしいわ。古い漆喰と、無理やり引き伸ばされたゴムみたいな……空間そのものが歪んどる匂いや」
結は蔵の扉に手をかけた。
重厚な観音開きの扉は、なぜか吸い込まれるように、すんなりと開いた。
「中を確認します。……凛、陽葵。入りますよ」
三人が蔵の中へ足を踏み入れた瞬間だった。
背後で、重い扉が『ガコン!』という音を立てて閉まった。
「ちょっと! 開かへんで、これ!」
凛が体当たりをするが、扉は微動だにしない。
「……結ちゃん、見てください。あそこ」
陽葵が指差した蔵の奥。
懐中電灯の光が照らし出したのは、外観からは想像もできないほど「広く」伸びた、終わりの見えない廊下だった。
「……外から見た蔵の奥行きは、せいぜい五メートル。ですがこの内部空間は、すでに五十メートルを超えていますね」
結は冷静にメジャーを伸ばした。
「四次元空間……いわゆる『空間増殖』の怪異です。……どうやらこの蔵、自分を『家』だと思い込み、母屋を飲み込んで成長しようとしていますね」
「笑えへんわ! うち、蔵の一部にリフォームされるんはお断りやで!」
凛の声が響く中、蔵の壁がズルリと動き、新たな「柱」が床から芽を出すように生えてきた。
九条工務店、最大の「構造欠陥」との戦いが始まった。




