第3話:(後編)匂い立つ怨恨
モニター越しに映る隣人の男は、焦点の合わない目でこちらを凝視していた。
インターホンの連打はやまない。それどころか、ドアを爪で引っかくような嫌な音が廊下に響き渡る。
「……高坂さん、部屋の奥へ。陽葵、玄関の守りを。凛、洗面所の『外科手術』を始めます!」
結の指示は電光石火だった。
陽葵が玄関マットの下に、清め塩を混ぜた特殊な緩衝材を滑り込ませ、ドアノブに浄化の結界を編み上げる。
「【静まりなさい。この扉は、悪意を通さぬ金剛の盾なり】!」
陽葵の祝詞が響くと、外からの衝撃音がピタリと止んだ。
その隙に、結と凛は洗面所へと飛び込む。
「凛、洗面台の鏡を外して、その裏の石膏ボードを切り抜いてください。配管のジョイント部分が見えるまでです!」
「任せとき! ……おりゃあ!」
凛がバールとノコギリを使い、見事な手際で壁を解体していく。
壁の裏側、断熱材の間には、真っ黒なカビのような「粘着質な影」がびっしりと張り付いていた。
「うわ……これや。お隣さん、壁の向こうで『呪符』を何枚も貼っとるな。建物の鉄筋を伝って、高坂さんの部屋に負のエネルギーを流し込んどるんや」
「……卑怯なやり方です。ですが、建物の構造を利用するなら、こちらにも策があります」
結が取り出したのは、特注の「アルミ箔を蒸着させた遮熱シート」と、最高級の「備長炭を練り込んだ調湿材」だった。
彼女はシートを壁の裏側に、鏡のような面が「隣の部屋」を向くように貼り付けていく。
「これは『気』を反射する鏡の壁です。さらに、この備長炭で流れてくる悪意を吸着し、無害な炭素へと分解します」
結の手が、精密機械のように動く。
仕上げに、彼女は洗面台の排水口に向けて、陽葵が精製した「聖なるコーキング剤(隙間埋め材)」を流し込んだ。
「陽葵、接続します! 気の流れを、逆流させてください!」
「はい! 【巡れ、清流。滞りを押し流し、元の場所へと還れ】!!」
リビングから陽葵が叫んだ瞬間、洗面所一帯が目も眩むような白い光に包まれた。
ゴボゴボッ!! という激しい音が配管から響き、真っ黒な液体が、来た道を戻るように壁の向こうへと逆噴射していく。
「あぎゃあああああ!!!」
隣の部屋から、男の絶叫が聞こえた。
自分たちが仕掛けた「呪い」が、九条工務店のリフォームによって百倍の威力で自分へと跳ね返ったのだ。
……やがて、マンション全体に満ちていた、あの不快な生臭さが、スッと消え去った。
***
三十分後。
廊下には警察が駆けつけ、錯乱状態で倒れていた隣人の男を連行していった。
男の部屋からは、大量の藁人形や、呪いの道具が見つかったという。
高坂さんの部屋に戻った三人は、新しく整えられた洗面所の前で、ようやく一息ついた。
「……信じられない。あんなに重かった空気が、こんなに軽くなるなんて」
高坂さんは、鏡に映る自分の顔を見て、信じられないといった様子で呟いた。
隈は消え、表情には生気が戻っている。
「高坂さん。今回私たちが施したリフォームは、ただの修繕ではありません。この壁は、外からの悪意を跳ね返す『守護の壁』です。もう、あの男の呪いが届くことはありません」
結は、新しく設置された三面鏡の角度を微調整しながら言った。
「家は、住人を守るための聖域であるべきです。……ですが、自分一人の力で守りきれない時は、私たち『九条工務店』を呼んでください」
「……ありがとう。本当に、命を救われました」
高坂さんは、深々と頭を下げた。
***
帰り道の夜道。
凛は、満足げに鼻を動かしながら夜風を楽しんでいた。
「ふぅー! やっぱり、都会の夜の匂いはこうでなくっちゃな。……でも結、あの『反射シート』、あんなに上手くいくとは思わんかったわ」
「物理的な遮熱理論と、風水の『形殺』を応用しただけです。……それより凛。今回の件で、確信しました」
結の表情が、少しだけ真剣なものになる。
「最近、こういう『建物を媒体にした呪い』が増えています。……もしかしたら、裏で糸を引いている者がいるのかもしれません」
陽葵が、不安そうに結の顔を覗き込んだ。
「……悪徳霊感リフォーム会社、でしたっけ? 結ちゃんが言っていた……」
「ええ。『黒曜建設』。彼らが、わざと呪いを振りまいて、高額な除霊工事を売り歩いているという噂があります。……今回の隣人も、彼らにそそのかされた可能性がありますね」
「……許せんなぁ、そいつら。うちの『建築士の魂』が黙っとらんわ!」
凛がバールを握る手に力を込めた。
「ええ。私たちの戦いは、単なる事故物件の清掃から、もっと深い場所へと繋がっているようです。……さて、明日の予定は?」
結が手帳を開くと、そこには新しい依頼が書き込まれていた。
「『真夜中になると、勝手に増築される蔵』がある、古い資産家のお屋敷です」
「……蔵が増える!? 今度は間取りが変わるんかぁ、もう、なんでも来いや!」
三人の笑い声が、タワーマンションの麓に響き、夜の闇に溶けていった。
九条工務店。彼女たちの仕事は、まだ始まったばかりだ。




