第3話:(前編)匂い立つ怨恨
今回の現場は、これまでの古びた物件とは打って変わって、都心の一等地に建つ築浅の高級タワーマンションだった。
オートロックを抜け、ふかふかの絨毯が敷かれた廊下を歩く三人の足音が、静寂に吸い込まれていく。
「……うわぁ、場違いやわ。うち、作業着のままやで? コンシェルジュの人に二度見されたわ」
凛が居心地悪そうに肩をすぼめ、腰の工具袋をガチャつかせた。
「いいえ。高級物件だからこそ、小さな不具合が致命的な『瑕疵』になるのです。……それより凛、さっきから顔色が悪いですが」
結が足を止め、隣を歩く凛を覗き込んだ。
凛は鼻に手を当て、眉間に深い皺を刻んでいる。
「……結、ここ、あかんわ。一階のロビーからずっと、生臭い匂いがしとる。それも、ただのゴミやない。……『呪い』を煮詰めて、腐らせたような、どろりとした嫌な匂いや」
陽葵も表情を曇らせ、数珠を握る手に力を込めた。
「私も、耳鳴りが止まりませんわ。……誰かが、ずっと壁の向こうで呪詛を吐いているような、低くて不快な音が聞こえます」
「視覚には、何も映っていません。……つまり、実体化した霊ではないということですね」
結は冷静に、三十二階の『三二〇五号室』の前に立った。
依頼主は、IT企業の役員を務める若きエリート、高坂さん。
ドアを開けて現れた彼は、高級なシャツを身に纏っているものの、目の下には深い隈があり、頬はこけていた。
「……九条工務店さんですね。お待ちしていました。……もう、一刻も早く、この部屋を『元通り』にしてほしいんです。毎晩、洗面所から変な音がして、家中が嫌な匂いで満たされる。管理会社に調べさせても、配管には異常がないと言うし……」
高坂さんの声は、今にも折れそうなほど弱々しい。
結たちは、さっそく問題の洗面所へと案内された。
大理石調のタイルに、最新式の三面鏡。ホテルのような美しい空間だ。
結の目には、霊の姿も、不自然な影も映らない。
「……(クンクン)……。うわっ、ここや! ここが一番キツい!」
凛が洗面台の下、収納扉の前で顔を背けた。
「結、これ配管の詰まりやないで。……誰かが、意図的に『毒』を流し込んどる。それも、物理的なもんやなくて、執念に近いドロドロしたやつや」
「凛、具体的にはどこから匂いますか?」
「……壁の裏、隣の部屋との境界や」
結は、高坂さんに問いかけた。
「高坂さん。お隣の方とは、何かトラブルがありましたか?」
「隣……? いえ、ほとんど顔を合わせたこともありません。ただ、半年ほど前に、僕が深夜に帰宅した際、廊下で少し大きな音を立ててしまったことがあって。その時、ドア越しにものすごい剣幕で怒鳴られたことはありますが……それっきりです」
「……半年。この怪奇現象が始まった時期と一致しますね」
結は、洗面台の鏡の縁に指を這わせた。
一級建築士としての視点で、壁の厚みと配管の構造を脳内で立体化する。
「陽葵。隣の部屋から、何か『音』は聞こえますか?」
陽葵が壁に耳を当て、集中する。
「……聞こえますわ。……『消えろ』、『堕ちろ』、『お前だけ幸せになるな』……。あぁ、なんて醜い。……これ、人間が発している声ではありませんわ。……『呪い』そのものが、意志を持って壁を叩いています」
その瞬間。
洗面台の蛇口が、勝手に「ガガガガッ!」と激しい音を立てて震え始めた。
蛇口から流れ出たのは、水ではない。真っ黒な、粘り気のある液体だった。
「ひっ……! まただ、これだ! これが毎晩起きるんだ!」
高坂さんが悲鳴を上げ、リビングへと逃げ戻る。
「凛、止めてください!」
「了解! ……【遮れ、不浄の回廊! 清浄なる鋼、ここに在り!】」
凛が工具袋から取り出したのは、特殊な『お守り』を埋め込んだ、特注の止水栓だ。
彼女がそれを力任せに回すと、黒い液体は逆流するように配管へと吸い込まれ、振動が止まった。
「ふぅ……。暫定処置は済んだけど、これ、根本解決にならへんで。……結、これ、お隣さんが『呪詛』を建物に練り込んでる。壁を通して、高坂さんの部屋の『運気』……つまり、気の流れを腐らせようとしとるんや」
「……建物を武器にするとは、悪趣味ですね」
結の瞳に、冷たい怒りの炎が宿った。
「家というものは、住人を守るための盾であるべきです。それを攻撃の道具に使うなど、建築に対する冒涜です」
結は、カバンからレーザー墨出し器(正確な直線を壁に映し出す道具)を取り出した。
「凛、陽葵。方針を決めます。……お隣さんの呪いを跳ね返すのではなく、この部屋の『構造』を変えることで、呪いを受け流し、逆に浄化のエネルギーへと変換します」
「えっ、そんなことできるん? リフォームだけで?」
「ええ。……『風水建築学』に基づいた、攻めのリフォームです。壁の裏に、呪いを無効化する『反射材(鏡)』と、気の流れを整える『炭の断熱材』を敷き詰めます」
しかし、その作業を始めようとした瞬間。
玄関のインターホンが、激しく鳴り響いた。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン!!
それは、執拗で、狂気じみた連打だった。
「……来たな。呪いの主や」
凛が、バールを握りしめた。
モニターに映し出されたのは、青白い顔をして、口元に不気味な笑みを浮かべた……お隣の住人だった。




