第2話:(後編)開かずの間の小さな住人
ミシミシ、という家鳴りが、地響きのような重低音に変わった。
階段の踏み板が不自然に跳ね上がり、廊下の壁紙が生き物のように波打つ。
「結、これただ事やないで! 家全体が拒絶反応起こしとる!」
凛がバールを構え直し、足元の揺れに踏ん張る。
「……シロアリに柱を食われ、雨漏りを放置され……。この家は、四十年間『痛い』と言い続けてきたんです。それを誰も聞かなかった」
結は揺れる室内で、倒れかけた学習机を支えながら冷静に周囲を観察した。
「少年の霊は、その痛みを増幅させるスピーカーになってしまっていた。陽葵、彼の『声』を中和してください!」
「はいっ! 【鎮まりなさい、古き柱、嘆きの梁。新しき息吹を、この礎に注がん】!」
陽葵が両手を床に突き、清浄な魔力を床板に流し込む。
波打っていた廊下が一時的に静まるが、一階の奥からは、さらに巨大な「何か」が這い上がってくる気配がした。
「……佐々木さんの息子さんが、一階にいます。凛、陽葵。一階へ降ります。この家の『核』を叩きますよ!」
三人は崩れかけた階段を駆け下りた。
一階のリビングでは、依頼主の佐々木さんが、泣きじゃくる赤ん坊を抱いて震えていた。
彼女の足元、床下の点検口から、黒い霧のような「腐敗の泥」が溢れ出している。
「佐々木さん、外へ! 今すぐに!」
結の叫びと同時に、凛が佐々木さんの肩を掴んで玄関へと押し出した。
「凛、玄関の結界を死守してください! 陽葵、あなたは床下の浄化を。私は……この家の『主筋』を直します!」
結が向かったのは、リビングの中心にある、大黒柱だった。
一見立派に見えるその柱も、結の「視力」で見れば、中身はスカスカの空洞。そこに、四十年分の「家の怨念」が溜まっていた。
「……痛かったですね。誰にも気づかれず、ただ朽ちていくのを待つだけなのは」
結は、ドロドロと溶け出した柱の表面に、素手で触れた。
普通なら霊障で腕が腐り落ちるような行為だが、彼女は一級建築士としての「誇り」でその毒を跳ね返す。
「ですが、今日でその痛みは終わりです。九条工務店が、あなたを『再生』させます」
結がカバンから取り出したのは、特殊な「加圧注入式の防腐剤」――に、陽葵が精製した霊的洗浄液を混ぜた特注品だ。
彼女は柱の亀裂にノズルを差し込み、一気にポンプを押し込んだ。
「凛! 仮設のジャッキアップをお願いします!」
「任せとき! ……【天を支え、地を固めよ。我が力、鉄の如く!】」
凛が二本の金属製ジャッキを柱の脇に叩きつけ、凄まじい力でハンドルを回す。
メキメキと音がして、沈み込んでいた天井が数センチ持ち上がった。
その瞬間、家全体が最後の断末魔のような震動を見せた。
壁の隙間から、数え切れないほどの「羽アリ」の霊が飛び出し、結たちに襲いかかる。
「陽葵、今です!」
「【すべての穢れを、春の嵐で吹き飛ばせ】!!」
陽葵が懐から取り出したのは、大量の「ヒノキのチップ」。
彼女がそれを宙に撒くと、祝詞の力で旋風が巻き起こり、チップの一片一片が光の礫となって、羽アリの霊を消滅させていく。
やがて。
狂ったような家鳴りが止まり、室内に静寂が戻った。
黒い霧は消え、大黒柱からは腐敗の匂いが消え失せていた。
***
二階の子供部屋。
少年の霊は、もう泣いていなかった。
剥がされたクローゼットの奥から見つかった、カビだらけのランドセルとテストの紙。結はそれを丁寧に拾い上げ、少年の前に置いた。
「君が守っていたのは、これですね。……お父さんに怒られるのが怖くて、ずっとここにいた」
結の言葉に、少年は小さく頷いた。
「でも、見てください。この家はもう、君を責めていません。柱は新しくなり、雨漏りも止まります。君の『秘密』は、私たちが預かりました」
少年が、おそるおそるランドセルに触れた。
その瞬間、彼の姿が透き通り、柔らかな光に包まれる。
「……ありがとう。おねえちゃん」
小さな声が響き、少年は陽光の中に溶けるように消えていった。
***
一週間後。
佐々木さんの家は、劇的なビフォーアフターを遂げていた。
暗かった二階の子供部屋は、大きな天窓から光が降り注ぐ、明るいプレイルームに。
腐っていた柱は「根継ぎ」という伝統技法で補強され、さらに最新の制震ダンパーが組み込まれている。
「本当に、ありがとうございました……。あの日以来、変な音も全くしなくなって。息子も、二階に行くと楽しそうに笑うんです」
佐々木さんは、晴れやかな笑顔で三人を送り出した。
帰り道の軽トラック。
凛がハンドルを握りながら、ニヤリと笑う。
「しかし、あの『根継ぎ』の技術、凄かったなぁ結。大工の棟梁も驚いとったで」
「物理的な補強こそが、最大の除霊ですから。……でも陽葵。あの少年のテスト、結局何点だったんですか?」
陽葵が助手席で、預かっていたテストをこっそり開く。
「えーと。……零点、でしたわ。それも、裏側に『ごめんなさい』って落書きがしてあって……。ふふ、可愛いですね」
「零点ですか。……それは確かに、子供にとっては世界の終わりのような絶望だったのでしょうね」
結は窓の外を流れる景色を見つめながら、少しだけ口角を上げた。
「さて、事務所に戻りましょう。次の現場は……『深夜に勝手に水が流れるトイレ』がある、築浅のマンションだそうです」
「うわぁ、次は水回りかぁ。凛ちゃん、また鼻の出番ですわね!」
「せやから、うちは嗅覚担当やないって言うてるやろ!」
三人の笑い声が、春の予感を感じさせる夕暮れの街に響いていった。




