第2話:(前編)開かずの間の小さな住人
住宅街の細い路地の奥。築四十年、二階建ての木造一軒家が、どんよりとした曇天の下で沈黙を守っていた。
外壁のモルタルにはひび割れが走り、庭の雑草は好き勝手に背を伸ばしている。
「……うわぁ。これはまた、年季が入っとるなぁ」
真壁凛が、事務所のロゴ入り軽トラックから降り立ち、首を鳴らした。
彼女の鼻は、すでに現場の「異変」を捉えている。
「凛、あんまり失礼なこと言わんといて。依頼主の奥様、すぐ後ろにいらっしゃるんやから」
陽葵が、苦笑いしながら車から降りる。
その後ろには、三十代半ばほどの、疲れ切った顔をした女性が立っていた。彼女はこの家を中古で購入したばかりの施主、佐々木さんだ。
「……すみません、急な依頼で。でも、もう限界なんです。夜になると二階の子供部屋から、ドタドタと走り回る音がして……。でも、二階には誰もいないんです。私の息子はまだ一歳で、一階の寝室で一緒に寝ているのに」
佐々木さんの声は震えていた。
安く手に入れたマイホーム。しかし、そこは「音」の鳴り止まない家だった。
「ご安心ください、佐々木さん。私たちが来たからには、物理的にも、それ以外も、全て解決いたします」
九条結が、手帳を閉じながら静かに告げた。
彼女の視線は、二階の端にある、カーテンの閉め切られた窓に向けられている。
「さて。まずは『現場検証』と行きましょうか」
***
家の中は、リフォーム前ということもあり、古い生活臭と埃の匂いが混じり合っていた。
結を先頭に、三人はギシギシと鳴る階段を上がり、二階へ向かう。
問題の「子供部屋」の前に着いた瞬間、陽葵が耳を澄ませた。
「……聞こえます。小さな、笑い声。でも、すごく寂しそうな響き……」
「凛、匂いは?」
「……(くんくん)……。おかしいな。腐敗臭も怨念もせえへん。ただ、めちゃくちゃに古い『紙』と『糊』の匂いがする。それと……粉ミルク?」
結がドアノブを掴む。
ノブは氷のように冷たく、まるで「入るな」と拒絶しているかのようだった。
だが、結は構わず、一気にドアを開け放った。
バァン!
室内には、かつての住人が残していったのであろう、色褪せた漫画雑誌や学習机がそのまま放置されていた。
窓の隙間から差し込む光の中に、ホコリが舞っている。
そして、部屋の真ん中。
そこには、六歳くらいの少年が、うずくまって泣いていた。
いや、正確には「少年の形をした、淡い光の塊」だ。
「……いたいた。不法占拠者、発見です」
結が淡々と告げると、少年の霊がびくりと肩を揺らし、こちらを振り向いた。
その顔には、深い悲しみと、何かを必死に訴えかけるような必死さが浮かんでいる。
「わ……わあぁぁぁん!!」
少年が叫んだ瞬間、部屋中の古い雑誌が舞い上がり、窓ガラスが激しくガタガタと音を立てた。
ポルターガイスト現象だ。
「ちょっと、暴れんといて! ここはもう、あんたの家やないって言うてるやろ!」
凛が結界を張ろうと前に出るが、結がそれを手で制した。
「待ってください。……この子の足元を見て」
結が指差したのは、部屋の隅にある「クローゼット」だった。
少年の霊は、そこから離れようとせず、必死に扉を抑えている。
「陽葵。彼は何を言っていますか?」
「ええと……『隠したんだ』……『見つかったら怒られる』……『だから、誰も入れないで』……。そんな風に聞こえます」
結は少年に歩み寄り、その視線の高さまで腰を落とした。
彼女の「視る力」は、霊の正体だけでなく、その霊が囚われている「建物の欠陥」も見抜く。
「君。そこに、何を隠したのですか? それが原因で、君はここから動けないのでしょう?」
「……だめ……おこられる……おとうさんに、おこられる……」
少年の声は、震える風の音のようだった。
結は立ち上がり、クローゼットの扉を冷徹に見つめた。
「凛。その扉、物理的に解体してください」
「え? でも結、この子、必死に守っとるで。無理に開けたら、暴走するんちゃうか?」
「いいえ。彼が守っているのは、自分の『失敗』です。それを解放してあげない限り、この部屋のリフォームは完了しません。……佐々木さんの息子さんのために、ここは明るいサンルームにする予定ですから。暗がりの隠し場所なんて、必要ありません」
「……わかった。九条工務店、現場監督の仕事や。いくで!」
凛がバールをクローゼットの隙間に差し込んだ。
少年が泣き叫び、部屋の温度が氷点下まで急降下する。
「陽葵、抑えて!」
「はい! 【優しき調べよ、荒ぶる魂を包み込み、安らぎを与えよ】!」
陽葵が柔らかな祝詞を唱えると、荒れ狂っていた室内の風が、ピタリと止んだ。
その隙に、凛が渾身の力でバールを引く。
バリバリッ、と嫌な音を立てて、クローゼットの奥の壁板が剥がれた。
そこから出てきたのは、少年の遺品……などではなかった。
壁の裏側の隙間から転がり落ちてきたのは、ボロボロになった、四十年前の「テストの紙」と、真っ黒にカビた「ランドセル」。
そして、それ以上に深刻なものが、壁の裏側に潜んでいた。
「……あちゃあ。これは、霊のせいだけやないわ」
凛が顔をしかめ、懐中電灯で壁の内部を照らす。
そこには、雨漏りによって腐食し、シロアリに食い荒らされた「通し柱」が無惨な姿を晒していた。
「結、これ見て。柱がボロボロや。このままリフォームしても、地震一発で二階が落ちるで」
結は、柱の腐食箇所を指先でなぞった。
霊障とは、建物の「物理的な悲鳴」に引き寄せられることが多い。
この少年は、自分が隠したテストの紙が原因で家が腐ってしまったと思い込み、ずっとこの場所を呪縛し続けていたのだ。
「……君。君のせいではありませんよ。これは、単なる『雨漏り』という施工上の不備です。君がテストを隠したから柱が腐ったのではない」
結の言葉に、少年の霊が動きを止めた。
「ですが、このままではこの家は壊れてしまいます。……凛、陽葵。大掛かりになりますが、方針変更です。この『腐った因縁』、柱ごと入れ替えますよ」
「……マジか。柱の入れ替え(根継ぎ)か。金曜までに間に合うかな?」
「やるんです。九条工務店に、直せない家はありません」
しかし、結たちの背後で、再び「ドタドタ」という足音が響いた。
それは少年ではなく、もっと不気味で、もっと巨大な、何かの足音だった。
「……結ちゃん。下から、何か来ますわ。……『家そのもの』が、怒っています」
階段を駆け上がってくる、重苦しい振動。
築四十年の家が、まるで巨大な怪物のように、三人を飲み込もうと動き始めた。




