第13話:(後編)消える階段の洋館
「……凛、座標を固定します。この空間の『繋ぎ目』を叩き出してください」
結の声は、凍りついた夜の空気のように冷徹だった。彼女の手にあるレーザー距離計の赤い光が、かつて階段が存在したはずの虚空で、あり得ない直角を描いて屈折している。
千路館の壁面が、まるで生き物の肺のように小さく伸縮を繰り返していた。ギチ、ギチ……と、乾燥した古い木材が悲鳴を上げる音が、霧の奥から反響して聞こえてくる。
「分かった。……(クンクン)……。この辺や、空間が焦げ付いたような、金属の焼ける匂いが一番濃いのはここや!」
凛が二本のバールをクロスさせ、特定の空間を凝視した。彼女の野性的な嗅覚は、目に見えない次元の裂け目から漏れ出す「摩擦熱」を正確に捉えていた。
「【天を支え、地を固めよ。我が領域、不変の理!】……おりゃあああ!!」
凛が渾身の力でバールを虚空へ叩きつけた。本来、空気を斬るはずの鉄塊が、ガキィィィン! という凄まじい衝撃音と共に火花を散らす。何もないはずの場所に、ガラスにひびが入るような亀裂が走り、そこから二階の廊下の風景が断片的に覗いた。
『……結ちゃん! 凛さん! 見えますわ、一瞬だけ光が見えました!』
インカムから陽葵の切迫した声が届く。
「陽葵、そのまま動かないで。……凛、続けてください。空間の歪みの起点、中庭にある『合わせ鏡』を粉砕します。この館の視覚的なループを断ち切らなければ、階段は再生しません」
結は、手に持った図面板に新しい線を書き加えた。それは現状の歪んだ間取りを否定し、本来あるべき「出口」へと続く避難動線を物理的に再構築するための、建築士による強制的な書き換えだった。
三人は館の奥、四方を高い壁に囲まれた不気味な中庭へと足を踏み入れた。そこには、二枚の巨大な姿見が向かい合わせに設置されており、無限に続く虚像の廊下を作り出していた。
「……これやな。この鏡が、家全体の『視線』を狂わせとるんや。……鼻が曲がりそうやわ、執着が腐って発酵しとる!」
凛がバールを振りかぶった瞬間、館が激しく震動した。壁から無数の手が伸び、凛の足首を掴もうと畳み掛ける。建物の意志が、その「核心」を守ろうと牙を剥いたのだ。
「陽葵、祝詞を! 迷宮の霧を晴らしてください!」
結が叫び、飛んできた木片を間一髪で避ける。
『はい! 【彷徨える魂よ、出口なき夢を捨てなさい。朝の光が、偽りの夜を暴き立てる。迷い子の道標よ、ここに現れよ!】!!』
二階の窓から陽葵が放った光の粒が、中庭の淀んだ空気を一気に浄化していく。壁から伸びていた無数の影の手が、光に焼かれて霧散した。
「今や! 死ぬまで迷ってろ、このクソ屋敷!!」
凛のバールが、合わせ鏡の一枚を粉砕した。
パリンッ、という世界が壊れるような乾いた音が響き渡り、視覚的な無限ループが崩壊する。同時に、玄関ホールで轟音が鳴り響いた。
三人がホールへ戻ると、そこには漆黒の闇に消えていたはずの重厚な大階段が、滝が逆流するようにして天井から降り注ぎ、元の場所に「接続」されていた。
「陽葵、降りてきなさい!」
結の呼びかけに応じ、陽葵が階段を駆け下りてくる。彼女が最後の一段を降り、結の手を握った瞬間、館全体の震動がピタリと止まった。
……静寂が訪れた。
かつての主が抱いた「失いたくない」という狂気的な愛着は、結たちが物理的に穿った「出口」という名の風穴によって、ようやく外へと逃げていった。
一時間後。
館の周囲を覆っていた深い霧は晴れ、千路館はただの、少し古風で複雑な間取りの洋館へと戻っていた。
「……はぁ。死ぬかと思った。……階段が消えるリフォームなんて、見積書にどう書けばええんや」
凛が工具を片付けながら、疲れた様子で愚痴をこぼした。
「……空間構築費、及び避難経路再定義料として加算しておきます。……陽葵、お疲れ様。無事で良かったです」
結が陽葵の肩を優しく叩くと、陽葵はいつものおっとりした笑顔を浮かべた。
「ふふ、ありがとうございます。……でも、あのお家の方、最後は少しだけ寂しそうに『おやすみなさい』って聞こえましたわ。……きっと、やっと眠れるんですのね」
その時、結のスマートフォンが再び震えた。画面には、レストランに残してきた浅野先輩からの不在着信とメッセージが表示されている。
『九条、さっきは悪かった。埋め合わせをさせてくれ。次はいつ会えるかな?』
結は無表情のまま、そのメッセージを長押しし、迷うことなく「削除」を選択した。
「……愛も建築も、出口がないものはただの監獄です。……先輩の設計思想には、もう興味はありません」
「お、冷たいなぁ結は。……さて、次はどこや? うち、今ならどんな階段でも登れる気がするわ」
凛が軽トラックのエンジンをかける。
「次は……『SNSでキラキラした生活を偽装するために、他人の家を呪うインフルエンサー』の物件です」
結が手帳を開き、次なる現場の名前を読み上げた。
「……人怖の匂いがプンプンしますわねぇ。……楽しみですわ」
陽葵が微笑み、三人を乗せたトラックは、夜の山道を下っていった。




