第13話:(前編)消える階段の洋館
銀座の裏通り、蔦に覆われた隠れ家のようなフレンチレストラン。
九条結は、アンティークの椅子に深く腰を下ろし、目の前に供されたコンソメスープを、ミリ単位の狂いもない正確な動作で口に運んでいた。
彼女の正面に座っているのは、大学時代の建築学科の先輩、浅野だ。現在は国内最大手のゼネコンで若きエースとして名を馳せている彼は、自信に満ちた笑みを浮かべて結を見つめていた。
「……九条、まだあんな小さな、半分除霊屋のような工務店で燻っているのか? 君の才能があれば、うちの設計部で国家プロジェクトに関わることだって容易いはずだ。新国立競技場の改修プロジェクトのチームにだって、僕が推薦してやるよ」
浅野は、ヴィンテージの赤ワインを揺らしながら、結を熱心に勧誘し続けていた。彼にとって、結は「埋もれさせておくには惜しい、天才的な設計能力の持ち主」であり、同時にかつての憧れの対象でもあった。
「……浅野先輩。お誘いは光栄ですが、丁重にお断りします」
結は、スープスプーンを音を立てずに皿の縁に置き、無表情のまま眼鏡のブリッジを押し上げた。
「私は、数万人が熱狂するスタジアムの設計よりも、たった一人の住人が流す『家の涙』を拭う今の仕事が気に入っています。構造計算上の安定よりも、そこに住む人の魂が安らげる空間を整えること。……それが私の『建築』です」
「涙? 相変わらず君の表現は理屈っぽくて、そして現実離れしている。……だが、勿体ないよ。君ならもっと、光の当たる華やかなステージで……」
浅野が結の手元へ、そっと自分の手を重ねようとした。その指先が結の指に触れるかというその瞬間、テーブルの上に置かれた結のスマートフォンが、木製の天板を激しく揺らすほどのバイブ音を響かせた。
画面には『凛(現場)』の文字が、警告灯のように激しく点滅している。
「……失礼。緊急の現場検証が入りました」
結は、浅野の手を鮮やかにかわして立ち上がった。
「えっ、まだメインディッシュも運ばれていないのに! 九条、待ってくれ!」
「……このスープの塩分濃度と抽出温度、構造的に完璧でした。ごちそうさまです。……お代は、以前の図面添削のコンサル料として相殺しておいてください」
結はナプキンを整えると、背後で浅野が呆然と固まるのも構わず、コートを羽織って夜の銀座へと風のように飛び出した。
***
一時間後。結がタクシーを飛ばして急行したのは、深い霧に包まれた山間に建つ、巨大な洋館『千路館』だった。
かつて高名な建築家が、終の棲家として建てたというその館は、無数の尖塔と複雑に入り組んだ回廊、そして「迷路」を具現化したような幾何学的な外観をしていた。
「結! 遅かったやないか! 現場がめちゃくちゃや、訳がわからんことになっとる!」
門の前で、凛が焦燥しきった様子でバールを握りしめていた。その鼻は、異様な緊張感でヒクついている。
「(クンクン)……。アカンわ、この家。古い木材と漆喰の匂いに混じって、凄まじい『空間の摩擦熱』の匂いがしとる。……建物が無理やり、自分の中身を書き換えとるぞ! 摩擦で焦げたような、嫌な熱気が家中に充満しとるんや! 建築基準法どころか、物理法則が家出中やで!」
「……陽葵は?」
「それが、二階の寝室の壁紙を調査しに行った途端、階段が消えたんや! 上下を繋ぐ物理的な動線が、文字通り跡形もなく消失しおった! うちがバールで叩いても、そこには空気が通るはずの場所なのに、見えない壁があるみたいに跳ね返されるんや。陽葵の声は聞こえるのに、手が届かへん!」
結は眼鏡を押し上げ、霧の中に沈む館の全景を凝視した。
彼女の一級建築士としての視覚には、建物全体が一人の男の狂った執着によって編み上げられた、巨大で複雑な知恵の輪のように投影されていた。
「……陽葵、聞こえますか? 無線を確認してください」
結が腰のインカムを叩くと、ノイズ混じりの陽葵の声が返ってきた。
『……結ちゃん! 聞こえますわ! ……でも、大変ですの。さっきから扉を開けるたびに、繋がっているお部屋が変わってしまうんです。さっきは図書室だったのに、今はなぜか使用人の控室。窓を開けても、そこには別の部屋の壁が立ちはだかっています……。まるで、家が私を迷わせようと、楽しそうに遊んでいるみたいで。どこまで行っても出口が見つかりませんの……』
「……陽葵、その場から一歩も動かないでください。……この館の設計思想は、『喪失の拒絶』。かつての主が、愛する人を二度と外に出さないために、家の内部を迷宮化したんです。……今のあなたは、館にとっての『新しい主』として認識されています。館は、あなたを愛でるために、出口という概念を消去しようとしている。建物の愛執が、構造そのものを歪めているんです」
結は、自身のカバンから高精度のレーザー距離計と、現場用の図面板を取り出した。何もない、かつて階段があったはずの空間に向けて赤いレーザーを放つ。光は空中で屈折し、本来ありえない角度で反射した。
「……凛、準備を。……この空間の歪み、正攻法のリフォームでは解けません。……構造の『矛盾点』を突き、力技で出口を引きずり出します。……家が拒絶するなら、こちらが『新しい理』を設計するまでです。バールを握る手に力を込めてください、ここからは物理的な解体と、設計の書き換えの同時進行です」
館の奥深くから、ズズズ……と巨大な岩盤が動くような、不気味な家鳴りが響き始めた。それは、獲物を逃さないと誓う捕食者の唸り声のようだった。




