第14話:(前編)隣の芝生は赤い
夕暮れ時の西新宿。空を鋭く突き刺すようにそびえ立つ超高層タワーマンションの一室で、九条結は無機質な大理石の床に膝をつき、レーザー距離計の赤い光を壁に走らせていた。
室内は、白とグレーのモノトーンで統一された「丁寧な暮らし」を体現したような、非の打ち所のないモダンインテリア。だが、結の眼鏡の奥にある瞳は、その美しい表面の裏側に潜む「構造的な歪み」を、冷徹な一級建築士の視点で正確に捉えていた。
(……表面の仕上げは完璧。一見すると、高級な石材と最新の防汚クロスが調和している。ですが、この壁面の反発係数がおかしい。まるで、石膏ボードの裏側に『泥』でも詰まっているかのような、不快な湿り気を帯びた振動が手に伝わってくる……)
結は、自身の指先に伝わる微かな違和感に神経を集中させた。彼女にとって、建物が放つ「異音」は、設計図に対する裏切りに他ならない。
「……九条さん、見てください。このソファーの脚、昨日は真っ白だったのに、今朝起きたらまた……こんなに真っ赤に染まっているんです。拭いても、市販のペンキで塗り直しても、中から血が滲み出すみたいに。もう、怖くて仕方がありませんの」
依頼主の主婦、美奈子さんは、震える手でスマートフォンの画面をこちらに向けてきた。画面には、彼女がSNSに投稿し続けてきた、数万人のフォロワーが熱狂する「理想の家庭」の断片が並んでいる。だが、実物の部屋は、そのデジタルな華やかさとは裏腹に、どろりとした重苦しい「嫉妬」の空気に支配されていた。
「……(クンクン)……。うわぁ、これ最悪や。生血の匂いと違うな。……他人の幸せを呪い殺そうとする生霊の『粘ついた体臭』と、ネット掲示板の書き込みがショートして焦げ付いたような、嫌な電子的悪意の匂いや。鼻の奥がツンとして、涙が出てきそうやわ」
凛が、愛用の作業着の襟元で鼻を抑えながら、嫌悪感を露わにした。彼女は、現場の空気が「腐っている」ことを本能で察知している。彼女の持つ職人としての矜持が、この「見せかけだけの美しさ」に塗り固められた空間を拒絶していた。
(……うわ、きっついなぁ。これ、ただの霊障やない。生身の人間が四六時中スマホ握り締めて、指先から垂れ流した『毒』が、建材の中にまで浸透しとる。……結の言う通り、この壁の裏には何か『とんでもないもん』が詰まっとるな。早くぶっ壊して、風通し良くしたらな、家が死んでまうわ)
凛はバールを握る手に力を込め、結の指示を待つ。その隣では、陽葵が壁にそっと耳を当て、常人には聞こえない「声」を聴き取ろうと集中していた。陽葵の表情は、いつもの穏やかな笑顔を保っているものの、その眉根は微かに寄っている。
「……聞こえますわ。……『ずるい』、『死ね』、『お前だけ幸せになるな』、『全部嘘だろう』……。何千、何万という匿名の人たちの指先から紡がれた呪詛が、この壁の裏側で、不協和音の合唱を奏でていますの。……美奈子さん、あなたの『幸せ』、随分と多くの人の逆鱗に触れてしまったようですわね」
陽葵がおっとりとした口調のまま、しかし一切の容赦のない毒舌を放つ。彼女は、依頼主が隠している「虚栄心」の裏側まで聴き透かしていた。
(……あらあら。この方、自分が被害者だと思っておいでですけれど、この『声』の中には、ご本人が過去に他の方へ投げかけた言葉も混じっていますわ。……自業自得、という言葉をプレゼントして差し上げたいくらいですけれど、それをお仕事としてお直しするのが私たちの役割ですものね。……でも、この音、本当に耳障りですわ。早く静かにして差し上げたいです)
陽葵は、胸元の数珠を指で弄びながら、冷徹な瞳を依頼主へ向けた。美奈子さんは顔を青白くさせ、力なく高価なデザイナーズソファに沈み込んだ。
「そんな……。私はただ、みんなに憧れられるような生活を投稿していただけなのに。……これじゃあ、今夜の『お茶会』のライブ配信ができない。フォロワーが減っちゃう……」
「……美奈子さん。あなたが今、本当に守りたいのは、この『家』での生活ですか? それとも、四角い画面の中にだけ存在する『仮想の賞賛』ですか?」
結が立ち上がり、特定の壁の一点を指差した。そこは、美奈子さんがいつも自撮りスポットとして使用している、特注の飾り棚がある場所だ。照明の当たり方まで計算し尽くされたその壁面は、今や内側から滲み出す「赤いシミ」によって無残に汚されている。
「この壁の含水率が異常に高い。……凛、その飾り棚を物理的に解体してください。……この家の『偽り』を、構造の根源から剥ぎ取ります」
「了解や! 結、待ってましたわ! ……見た目だけの中身スカスカな壁なんて、うちのバール一本で十分やな! 景気良くいくで!」
凛が猛然と踏み込み、バールの先を壁紙の僅かな隙間に突き立てた。ベリッ、と嫌な音を立てて剥がれた高級壁紙の裏側。石膏ボードを破壊した瞬間に溢れ出してきたのは、本来そこにあるはずのない、膨大な「紙の束」だった。
「……何、これ……」
美奈子さんが絶句し、膝をつく。そこから転がり落ちてきたのは、彼女がSNSでこれまでに受けてきた誹謗中傷のプリントアウト。そして、彼女自身がかつて匿名アカウントで、ライバルとなるインフルエンサーたちへ送りつけた、罵詈雑言の記録だった。
「……黒曜建設の仕業ですね。……彼らはあなたの虚栄心と恐怖に付け込み、数ヶ月前のリフォームの際、断熱材の代わりにこの『悪意の増幅材』を壁の中に敷き詰めた。……スマートフォンの通知が鳴り、電波がこの部屋を走るたびに、この壁がネット上の呪いを吸い込み、家を物理的に腐らせ、変色させていたんです。……家が、あなたの毒を排出できずに泣いていますよ」
結の言葉が終わるか否か。
部屋中のスマート家電が一斉に起動し、真っ赤に染まった壁から、実体化した「悪意の泥」が、津波のように結たちへ襲いかかろうとしていた。
(……この不法占拠物、あまりにも動線が整理されていませんね。……一気に、解体させていただきます)
結は眼鏡を直し、襲いかかる影を冷徹に見据えた。




