第10話:陽葵のお見合い騒動
山手線の内側、高台の一等地に広大な森が広がる一角がある。
重厚な石造りの門をくぐると、砂利道が奥へと続き、その先には明治時代から続く壮麗な日本家屋が鎮座していた。佐藤本邸――佐藤陽葵の実家である。
「お帰りなさいませ、陽葵お嬢様。……その、作業用のエプロン姿もお似合いでございますが、本日はお召し替えを」
白髪の家令が深々と頭を下げ、陽葵の手から使い込まれた数珠と工具袋を、まるで宝物のように恭しく受け取った。
「ただいま戻りました、広瀬さん。……あ、これ、事務所の近くで評判の鯛焼きですの。冷めないうちに皆さんで召し上がってくださいな」
陽葵はいつものおっとりした笑顔で、老家令に紙袋を預けた。
だが、奥の広間へ一歩足を踏み入れるなり、室内の空気が一変した。
上座に座る厳格な父と、着物を凛と着こなした母が、冷ややかな視線を陽葵に投げかける。
「陽葵。……九条工務店などという、得体の知れぬ場所で泥にまみれるのはもう終わりにしなさい。……本日は、一条家の御曹司をお招きしてあります。この良縁、佐藤家の未来のためにも、無下にはできませんよ」
「……お父様。私は今の仕事に誇りを持っていますわ。……建物の『声』を聴き、住まう人を救う。……それは、この家に代々伝わる祝詞の真意でもありますはずです」
陽葵の静かな反論は、襖の向こうから現れた「お見合い相手」によって遮られた。
一条氏。歴史ある財閥の跡取りであり、容姿端麗、経歴も完璧。
だが、陽葵の耳には、彼が歩くたびにジャラリ、ジャラリ……という、重苦しい「鎖の擦れる音」が響いていた。
「……初めまして、陽葵さん。……噂通りの、美しい方だ。……ですが、あなたの耳には、私を縛るこの『音』が聞こえているのでしょう?」
一条氏の微笑みは、どこか空虚で、その背後には真っ黒な執着の渦が渦巻いていた。
***
翌日。
一条家が所有する、築百二十年の歴史的建造物『一条迎賓館』。
そこには、陽葵に「建築コンサルタントの同行」を強引に許可させた結と凛の姿があった。
「……うわぁ。……ここ、家やないで。……『金』の匂いしかせえへんわ」
凛が鼻を抑え、豪華絢爛なシャンデリアを見上げた。
「(クンクン)……。古い土と、カビた紙。……それと、何千人分もの『欲』を煮詰めたような、ドロリとした不快な匂いや。……結、これ、構造的に腐っとるぞ」
「……ええ。凛の言う通りです」
結は、手に持ったレーザー距離計で天井の高さを測りながら、眉をひそめた。
「天井高、三五〇〇ミリ。……ですが、私の『目』には、その上にさらに一五〇〇ミリの『隠された空間』が見えます。……そこに、一条家の『業』が溜まっている」
「……聞こえますわ。……『足りない』、『もっと寄越せ』、『離さないぞ』……。この建物自体が、巨大な『強欲の神』の胃袋になっていますわね」
陽葵が、胸元の数珠を握り締めた。
案内役の一条氏が、力なく笑う。
「……最近、この館の天井から『黒い液体』が滴り落ちるんです。招待客がそれを浴びると、皆、金銭感覚を失い、破滅していく。……私の父も、祖父も、この館に飲み込まれました。……陽葵さん、あなたなら、これを『リフォーム』できますか?」
その瞬間。
パタリ、と一条氏の額に、一滴の黒い油のような液体が落ちた。
同時に、館全体が「ジャラリ!」と激しく鳴り響き、壁紙が生き物のように波打ち始めた。
天井の隙間から、真っ黒な、人の欲望を形にしたような泥が溢れ出してくる。
「……不法占拠どころか、家主を奴隷にしている神様ですか」
結が眼鏡を押し上げ、冷徹に告げた。
「……凛、陽葵。……一条家の『相続リフォーム』、開始します。……この腐った契約、根底から解体しましょう」
九条工務店。
お見合いという名の「家系の因縁」との戦いが、幕を開けた。
ジャラリ……ジャラリ!!
一条迎賓館の重厚な天井から、真っ黒な粘液が滝のように降り注ぐ。それは明治以来、この一族が溜め込んできた他者の怨嗟と、底なしの強欲が混じり合った「業」の雫だった。
「ひっ……ああ、まただ! 父上も、こうして飲み込まれていったんだ!」
一条氏が頭を抱えて蹲る。彼の背中からは、無数の黒い鎖が天井の闇へと伸び、建物の梁に幾重にも巻き付いていた。
「凛、天井裏へ! 物理的な『重し』になっている鎖の基点を叩き切ってください!」
結が、黒い雨を避けながらレーザー墨出し器を照射した。赤い光が、闇の中に潜む「不自然な空間」を暴き出す。
「了解や! ……金に目が眩んだ神様か何か知らんけど、うちのバールで引導渡したるわ!」
凛が脚立を蹴り飛ばすようにして跳躍し、天井の点検口へと飛び込んだ。
直後、天井裏から「ガキィィィン!!」と、金属同士が激突する凄まじい衝撃音が響き渡る。
「陽葵、一条氏の『契約』を遮断してください。……彼がこの館の『生贄』として繋がれている限り、増築(増殖)は止まりません!」
「はい、結ちゃん。……【古き因縁、欲の糸。主を縛るは偽りの理。……光の刃よ、魂の自由を奪う鎖を、粉微塵に砕きなさい】!!」
陽葵が数珠を一条氏に向けて突き出すと、彼女の全身から眩いばかりの白光が放たれた。
パチンッ、パチンッ!!
一条氏の背中に食い込んでいた黒い鎖が、陽葵の祝詞によって次々と弾け飛ぶ。
それと同時に、凛が天井裏で叫んだ。
「取ったぞ! これが『強欲の神』の心臓代わりやな!!」
凛が放り投げたのは、真っ黒に変色した、巨大な「古びた大黒柱の端材」。そこには、びっしりと金箔で「もっと、もっと」という呪詛が書き込まれていた。
「……凛、それを地下の換気口へ! ……陽葵、出口の誘導を!!」
結の指示通り、凛がその端材を地下へと続く通気ダクトに叩き込む。
陽葵がその先を祝詞で清めると、館の中に溜まっていた黒い液体が、巨大な渦を巻いて地下の「逃げ道」へと吸い込まれていった。
「……建物を閉じ込め、欲望を溜めるから腐るのです。……これからは、風を通し、欲を外へと逃がしなさい」
結が、静まり返った館の壁をそっと撫でた。
……一瞬の静寂の後。
館を覆っていた重苦しい圧迫感が霧散し、天井からは「黒い液体」ではなく、清々しい木の香りが漂い始めた。
***
一時間後。
一条氏は、憑き物が落ちたような、清々しい表情で庭に立っていた。
彼の背中を縛っていた「鎖の音」は、もう誰の耳にも聞こえない。
「……陽葵さん。……私は、自由になれたようです。……一条家の莫大な資産の半分は、この館の『解毒』と共に消えてしまいましたが……心が、これほど軽いのは初めてだ」
「……良かったですわ。……お金は、また一から稼げばよろしいのです。……それより一条さん、リフォームの請求書、後で事務所に送らせていただきますわね」
陽葵がおっとりとした笑顔で、しかし極めて現実的な一言を放つと、一条氏は苦笑いしながら頷いた。
***
数日後。
九条工務店の事務所では、三人が百円ショップのカップラーメンを啜っていた。
「……ふぅ。お嬢様の実家のお見合い、結局どうなったんや?」
凛が、麺を啜りながら陽葵を覗き込む。
「ええ。……『一条様は、リフォーム代金の支払い能力に不安があるため、お付き合いは継続できません』とお父様に伝えましたわ」
「……理由がえげつないな、おい」
凛がツッコミを入れるが、結は満足げに手帳を閉じた。
「……妥当な判断です。……一条家の家計(構造)は、現在建て直しが必要な段階ですから。……さて、陽葵。実家のご両親は、まだ納得していないようですが」
「いいえ。……一条さんの館が、見違えるほど風通しが良くなったのを見て、お父様も少しだけ黙ってくれましたわ。……九条工務店の『腕』は、認めざるを得なかったみたいです」
陽葵が、楽しそうに笑う。
だが、その平和な空気を切り裂くように、事務所の電話が鳴り響いた。
プルルル、プルルル。
結が受話器を取る。相手は、かつて助けた第5話の佐藤さん夫婦だった。
『九条さん! ……また、来たんです! 今度は……黒曜建設の人間が、私たちの家に直接乗り込んできて……!』
結の表情が、一瞬で「一級建築士」の冷徹な仮面へと変わった。
「……黒曜建設。……ついに、直接行動に出てきましたか」
凛がバールを手に取り、立ち上がる。
陽葵も数珠を握り締め、静かに頷いた。
「……さて。……私たちの『聖域』を荒らす不逞の輩には、徹底的な『解体工事』が必要なようですね」
九条工務店。
彼女たちの戦いは、ついに宿敵・黒曜建設との全面戦争へと突入する。




