第9話:【人怖】理想の家の「毒」
その家は、遠目から見ても異様なほど「白かった」。
閑静な高級住宅街に建つ築五年の注文住宅。外壁のタイルには汚れひとつなく、庭の芝生は人工物のように均一な高さを保っている。
「……うわぁ。眩しすぎて目がチカチカするわ。ここ、本当に人が住んどるんか?」
凛がサングラスを直しながら、門扉の前で立ち止まった。
「ええ。ですが、凛……鼻を抑えておいた方がいいかもしれません。門の外まで、あの特有の『刺すような匂い』が漏れ出しています」
結が、手帳を片手に眉をひそめた。
依頼主の恵美子さんは、汚れひとつない白いワンピースを纏い、神経質そうな面持ちで三人を迎え入れた。
「……九条さん。もう、どうすればいいのか分からないんです。家の中は完璧に清め、風水に則って家具も配置しました。なのに、夫は毎晩咳き込み、娘は部屋に閉じこもったまま出てこない……。きっと、この家のどこかに『不浄な何か』が潜んでいるんです」
家の中に一歩足を踏み入れた瞬間、凛が激しく咳き込んだ。
「ゴホッ、ゴホッ! ……な、なんやこれ。空気が……重い。それに、鼻の奥がツンとするわ。……結、これ霊の匂いと違うぞ」
「……(クンクン)……。凛さんの言う通りですわ。……霊の足音も、嘆きも聞こえません。……ただ、家全体が『息ができない』と、苦しそうに身悶えしている音だけが響いています」
陽葵が、胸を押さえて顔をしかめた。
室内はモデルハウス以上に整頓されていた。埃一つなく、空気清浄機が数台フル稼働している。しかし、結の目は、壁の隅々にある「異常」を見逃さなかった。
「恵美子さん。……この家、窓を最後に開けたのはいつですか?」
「窓? 開けるわけがないでしょう。外気には汚れた排気ガスや花粉、それに『悪い気』が混ざっています。……二十四時間換気システムも、不浄な空気を吸い込まないように、フィルターを三重にして、吸気口は全てガムテープで塞いでありますわ」
結は、無表情のまま壁に近づいた。
白い壁紙の継ぎ目が、わずかに黄色く変色し、波打っている。
「……恵美子さん。あなたが毎日使っている洗剤は、どのようなものですか?」
「風水で推奨されている、特別な浄化洗剤です。……毎日、壁から床まで、原液で磨き上げていますわ。清めこそが、家族を守る唯一の手段ですから」
結は、カバンから大気質モニターを取り出した。
スイッチを入れた瞬間、アラームが激しく鳴り響く。
表示されたVOC(揮発性有機化合物)の数値は、基準値の十倍を超えていた。
「……恵美子さん。家族が病気なのは、霊のせいでも、不浄な気のせいでもありません。……あなたが、この家を『毒の箱』に変えてしまったからです」
「……なんですって? 私が、家族のためにこれほど尽くしているのに……!」
恵美子さんの目が、異様な光を帯びて結を睨みつけた。
「凛。二階の子供部屋の扉を。……おそらく、内側から目張りがされています。……物理的に、風を通さなければ、娘さんが危ない」
「了解や! ……掃除しすぎて人を殺しかけるなんて、笑えへんぞ!」
凛がバールを手に、階段を駆け上がる。
背後で、恵美子さんが「不浄な手で触らないで!」と金切り声を上げ、結に掴みかかろうとした。
「触らないで! 汚い! あなたたちの靴、外の邪気が付いているわ! 今すぐ出ていって、清めさせて!!」
恵美子さんが狂ったように叫び、結の腕を掴んで激しく揺さぶる。
その指先は度重なる洗剤での洗浄により、赤くひび割れ、痛々しく剥落していた。
「……恵美子さん。落ち着いてください。あなたの『清め』が、一番大切なご家族を窒息させているんです」
結は動じることなく、恵美子さんの震える手を受け止めた。
「凛、二階の換気口を!!」
「了解や! ……こりゃあひどいな、目張りどころかシリコンで完全に埋め殺しとるやないか!」
二階から凛の怒鳴り声と、激しい破壊音が響く。
ドゴォォォン!!
凛がバールで、ガムテープとシリコンで密閉された給気口を粉砕した。
その瞬間、家全体の気圧が変化した。
淀んでいた空気が外へと吸い出され、新鮮な、しかし恵美子さんが「不浄」と呼ぶ外気が室内に流れ込んでくる。
「ああ……ああああ!! 不浄な気が入ってくる! 汚れる、汚れてしまうわ!!」
恵美子さんが床に崩れ落ち、頭を抱えて泣き叫ぶ。
「陽葵、中和を。……彼女の心の『換気』も必要です」
「はい、結ちゃん。……【荒ぶる心よ、静かなる凪を迎えなさい。白き壁に囚われし魂に、緑の風を注ぎ込まん】……」
陽葵が恵美子さんの背中にそっと手を触れ、穏やかな祝詞を唱える。
陽葵の手から放たれる柔らかな光が、恵美子さんの強迫観念を解きほぐすように、その場を包み込んでいった。
数分後。
恵美子さんの荒い呼吸が、徐々に静かになっていく。
二階からは、凛に支えられた中学生の娘さんが、ふらつきながら降りてきた。
「……おかあさん。……空気が、おいしいよ。……もう、咳が出ない」
娘さんのその一言に、恵美子さんは呆然と顔を上げた。
「……恵美子さん。家は、美術館でも展示品でもありません。人間が汚し、傷つき、それを手入れしながら共に生きていく『器』です」
結は、ボロボロになった恵美子さんの手に、自身の清潔なハンカチをそっと添えた。
「完璧な風水など、この世には存在しません。……本当の『良い気』とは、住む人が笑い、窓を開けて季節の匂いを感じること。……あなたは、家族を守ろうとして、家族を閉じ込めてしまった。……それはリフォームではなく、緩やかな拷問です」
恵美子さんは、自分の荒れた手と、娘の青白い顔を交互に見つめ、ようやく大粒の涙を流した。
***
一週間後。
恵美子さんは精神科への通院を始め、家には再び「生活の音」が戻っていた。
換気口は正しく機能し、リビングのテーブルには、恵美子さんが「ゴミが出るから」と禁じていた花の鉢植えが置かれている。
「……ありがとうございました、九条さん。私、何かに憑りつかれていたのかもしれません。……『綺麗にしなきゃ』って思うほど、家が自分を追い詰めてくる気がして」
「……憑りついていたのは霊ではなく、あなたの抱えた不安です。……家は、あなたの不安を映し出す鏡でもありますから」
結は、新しく設置した高性能な換気フィルターのチェックを終え、穏やかに告げた。
「……たまには、埃が積もるくらいでちょうどいいんですよ。……それが、生きている証拠ですから」
***
事務所に戻った三人は、溜まっていた図面の修正作業に取り掛かっていた。
陽葵が、買ってきたばかりのポテトチップスをボリボリと食べながら、デスクに欠片をこぼしている。
「……ふぅ。やっぱり、適度な汚れが一番落ち着きますわねぇ。……結ちゃん、これ、おいしいですわよ?」
「……陽葵。さっきの現場の話、聞いていましたか? ……適度と言いましたが、デスクの上でポテトチップスを散らかすのは、構造上の瑕疵に当たります。……今すぐ掃除機をかけなさい」
「えぇー! せっかくリラックスしていましたのに!」
「……凛、掃除機を貸してください。……私が吸い込みます」
結が真顔で立ち上がると、凛が慌てて割って入った。
「待て待て、結! お前が掃除機持つと、事務所の壁ごと吸い込みそうで怖いわ! ……あーあ、平和やなぁ」
凛の笑い声と共に、九条工務店の夜は更けていく。
だが、その平和な空気の裏側で。
陽葵のスマートフォンに、見知らぬ番号から一通のメッセージが届く。
『陽葵様。……実家より、お見合いのお話が来ております。……至急、ご帰宅ください。 ――佐藤家・家令』
「……あ。……忘れていましたわ」
陽葵の顔から、一瞬だけ笑顔が消えた。
次なる舞台は、陽葵のルーツ。
古き良き、しかし「重すぎる」しきたりに縛られた、佐藤家の闇が動き出す。




