第8話:(後編)深夜の「増殖」トイレ
「結、あかん! 床板が腐った畳に変わっとる! 足元が沈むわ!」
凛が叫び、バールを床のタイルに突き立てて踏ん張る。
三畳ほどもあった最新マンションのトイレは、今や一畳分ほどの、薄暗い板張りの『汲み取り式便所』へと上書きされようとしていた。
壁からは古い松材の梁がせり出し、タンクレストイレの基部をメキメキと押し潰そうとしている。
「陽葵、耳を澄ましてください! 水神が執着している『核』はどこにありますか?」
結は、迫りくる古い壁に背を預け、冷徹に空間をスキャンする。
「……聞こえますわ。……『渇く』、『還せ』、『冷たい石の下は嫌だ』……。結ちゃん、便器の真下。……排水管のジョイント部分に、当時の井戸の『蓋』の一部が噛み込んでいますわ!」
「……やはり。建設時の杜撰な基礎工事が原因ですね。……凛、物理的なバイパスを作ります。壁をぶち抜き、現代の排水管を五センチだけ西へずらしてください!」
「五センチ!? この狭い場所でか! ……やってやろうやないの!」
凛が特殊なジャッキを取り出し、迫りくる「過去の壁」を強引に押し戻した。
ギチギチと、現代のコンクリートと江戸時代の木材が火花を散らして軋み合う。
その隙間に、凛が超硬質のドリルを叩き込んだ。
「陽葵、水神を宥めてください! 私たちが道を作ります!」
「はい! 【清らかなる水の流れよ。古き井戸に留まらず、広き大地へ、自由なる旅へと還りなさい】!!」
陽葵が、持参した聖なる「清め水」を排水口へ一気に注ぎ込んだ。
その瞬間、便器から真っ黒な泥水が噴き出し、人の形を成そうとうごめいた。
それは、数百年もの間、暗い石の下に封じ込められていた水神の悲鳴だった。
「……水神様。あなたはここに居たいのではない。……外へ出たいのですね?」
結が、泥水の手が自分の喉元に迫るのも厭わず、静かに問いかけた。
「……あなたが流れるべきは、この狭いパイプではありません。……凛、今です!」
「りゃあああ!!」
凛が、現代の配管を強引に歪ませ、井戸の蓋の破片をバールで弾き飛ばした。
カラン、という軽い音と共に、錆びた鉄の破片が床に転がる。
直後、噴き出していた泥水が、まるで磁石に吸い寄せられるように排水口へと吸い込まれていった。
ズズズッ……という地鳴りのような音が響き、トイレの空間が激しく波打つ。
……気がつくと、そこは元の、清潔な白いタイルのトイレに戻っていた。
迫っていた古い柱も、腐った畳も、幻のように消え去っている。
「……ふぅ。……九条工務店、緊急配管工事、完了や」
凛がバールを肩に担ぎ、大きく息を吐いた。
便器の底には、もうお札は浮かんでこない。
代わりに、キラリと光る、一粒の「綺麗な小石」が残されていた。
「……水神様からの、お礼かしら。……古い井戸の底にあった、お守り石かもしれませんわね」
陽葵がその石を拾い上げ、優しく微笑んだ。
***
一時間後。
依頼主の佐藤さんは、元の広さに戻ったトイレを見て、腰を抜かさんばかりに驚いていた。
「……本当に、治ったんですね。……あの、お札も、変な音も……」
「ええ。物理的に配管を絶縁し、霊的な通り道を整備しました。……これでもう、あなたのプライベートを邪魔されることはありません」
結は、新しい壁の補修跡をチェックしながら、事務的に答えた。
「ですが佐藤さん。……時々は、ベランダの植物に水をやってください。……水神様は、動く水が好きですから」
「……分かりました。大事にします」
***
帰り道の車中。
凛が運転席で、温泉旅行で買ってきた「鴉の湯」の温泉饅頭を頬張っていた。
「……しかし結。あの狭いトイレで五センチの配管ずらしは、我ながら神業やったわ。……合コンの男たちに見せてやりたいくらいや」
「……あなたは、もう少し自分の技術を安売りしない方がいいですよ、凛。……でも、確かに見事でした」
結が珍しく素直に褒めると、凛は照れ臭そうにハンドルを切った。
「ふふ、次は私の番かもしれませんわね。……次は『夜な夜な自分の遺影をリフォームする幽霊』がおる、写真館でしたわね?」
「……いえ、その前に。……結ちゃん、後ろを見てください」
陽葵がバックミラーを指差した。
夕闇の向こう。
一台の、真っ黒な高級セダンが、一定の距離を保って彼女たちの車を追ってきている。
「……黒曜建設。……私たちの『リフォーム』が、よほど気に障ったようですね」
結の瞳が、眼鏡の奥で鋭く光った。
九条工務店。
彼女たちの日常は、安らぎの温泉から、黒い組織との全面対決へと、一気に加速しようとしていた。




