第8話:(前編)深夜の「増殖」トイレ
湯煙の向こうに、沈みゆく夕日が山際を赤く染めている。
箱根の山懐に抱かれた老舗旅館『鴉の湯』。檜の香りが漂う露天風呂に、九条工務店の三人は並んで浸かっていた。
「……ふぅ。極楽や。バール握りすぎて固まった肩甲骨が、じわぁっと解けていくわ……」
凛が縁に頭を預け、長い手足を伸ばして感嘆の声を上げた。
「本当ですわね。ストーカー騒動の後の温泉、最高のご褒美ですわ。……見てください、このお湯の透明度。不純な音が一切しませんわ」
陽葵が手でお湯を掬い、うっとりと目を細める。
「……凛、陽葵。仕事の話はやめようと言いましたが、一つだけいいですか」
結が、湯船に浸かりながらも鋭い視線を旅館の建物に向けていた。
「この露天風呂の石組み、一見ランダムに見えて、実は水流の淀みを計算し尽くした『龍穴』の配置です。さらに、あそこの非常口。……誘導灯の角度が三度ずれています。万が一の際、宿泊客が迷う可能性がありますね。……明日、仲居さんに図面を引いて渡しておきます」
「結! 休みの日くらい、避難経路の心配せんといて! あんた、せっかくの美肌の湯が『仕事の湯』になっとるで!」
凛が呆れたように湯を撥ね飛ばすと、結は眼鏡(曇り止め加工済み)を指で押し上げた。
「……職業病です。……建物が助けを呼んでいると、放っておけない性分なもので」
結局、その後の夕食でも、陽葵が「この煮物の出汁、鰹と昆布の比率が黄金比(一対一.六一八)ですわ!」と騒ぎ、凛が「この旅館の柱、欅のいいトコ使っとるなぁ」と撫で回し、三人の慰安旅行は、いつの間にか「建築・美食視察ツアー」へと変貌を遂げていた。
***
そんな賑やかな休暇から三日後。
事務所に戻った彼女たちを待っていたのは、最新型マンションの「水回り」に関する、世にも奇妙な依頼だった。
「……深夜二時。決まった時間に、勝手にトイレの水が流れるんです」
依頼主の佐藤さんは、築三年の高級マンションに住む若きシステムエンジニアだ。
「自動洗浄機能の故障……ではないようですね」
結が、佐藤さんから提出された動画を確認する。
無人のトイレ。蓋がひとりでに開き、轟音と共に水が流れる。ここまでは機械の誤作動でも説明がつく。だが、問題はその「後」だった。
渦巻く水が引いた便器の底に、ひらりと、一枚の紙が浮かび上がってくる。
それは、現代のトイレットペーパーではない。赤茶けた墨で何かが書かれた、古めかしい和紙の『お札』だった。
「……(クンクン)……。うわぁ、強烈やな。これ」
現場のトイレに足を踏み入れた凛が、鼻を抑えて顔をしかめた。
「下水の匂いと違う。……もっと古い、湿った土と、数百年放置された木材の腐敗臭や。……結、これ、配管の向こう側に『別の時代』が繋がっとるぞ」
「凛さんの言う通りですわ。……この個室、耳を澄ますと『水の音』が二重に聞こえます。……一つは現代の給水音。もう一つは……深い井戸の底で、誰かが水を汲んでいるような、滑車の軋む音……」
陽葵が壁に手を触れた瞬間、彼女の手が、まるで泥の中に沈むように数センチ壁に埋まった。
「……!? 結ちゃん、壁が、柔らかいですわ!」
「いいえ、陽葵。壁が柔らかいのではありません。……『空間』が浸食されているんです」
結がレーザー距離計を壁に照射した。
デジタルの数値が、リアルタイムで書き換わっていく。
九〇〇ミリ……八五〇ミリ……八〇〇ミリ。
「……見てください。このトイレ、私たちが立ち入ってから、すでに一〇センチも内側に狭まっています。物理的な壁が迫り出しているわけではない。……古い木造建築の『幻影』が、現代の空間を上書きしようとしているんです」
結の視覚(目)には、モダンなタンクレストイレと重なるようにして、古い木製の「汲み取り式便所」の骨組みが、半透明のノイズのように点滅して見えていた。
「……佐藤さん。このマンションが建つ前、ここには何がありましたか?」
「ええと……。確か、古い大地主のお屋敷があったと聞いています。建設時に、大きな井戸が見つかって、それは埋め戻したはずだって……」
「……埋め戻しが不完全だったようですね。……いえ、それどころか」
結は、便器の底に再び浮かび上がってきた『お札』をピンセットで拾い上げた。
「このお札、井戸の『水神』を封じ込めるためのものです。……マンションの配管工事の際、業者が誤ってこのお札が貼られた古い祠の基部を損壊させたのでしょう。……行き場を失った水神の怒りが、現代の排泄システムを伝って、自分の『家』を取り戻そうとしています」
バキバキバキッ!!
凄まじい音と共に、トイレの壁紙が裂け、中から真っ黒に腐った「江戸時代の柱」が突き出してきた。
「凛、陽葵! これ以上の浸食は、マンションの構造自体を歪めます! 防衛線を張ってください!」
「了解や! ……最新マンションで井戸掃除やなんて、洒落にならんわ!」
凛がバールを構え、迫りくる古い柱を叩き伏せるべく踏み込んだ。




