第60話 やることは一つだけ
「夏鈴先輩、こんにちはっ!」
いきなり三年生の教室に入ってきた私を見て、教室にいた全員が目を丸くした。
驚くのも無理はない。こんな風に慣れ慣れしく先輩に話しかけられる人なんてこの塾にはいないから。
「……昨日の」
「栞です。これ、先輩に返さなきゃって」
財布から20円を取り出し、先輩に渡す。いいのに、と言いながら、先輩は受け取ってくれた。
私は昨日、先輩に恋をした。
女同士だとか、初めて喋ったのにとか、そんなことは関係ない。というか、考える暇もなかった。気づけば私は恋に落ちていたから。
こんなことは初めてで、でも、やることは一つしかない。
先輩に好きになってもらうために、とことんアピールしなきゃ!
やることが決まれば、行動も決まる。今日の私はいつもの倍近い時間をかけ、気合を入れてメイクをしてきた。
「それとこれ、昨日のお礼です。どうぞ!」
塾へくる前、母親に頼んで買ってもらったクッキー缶を先輩に渡す。洋菓子店で買ったクッキー缶は、2000円くらいのものだ。
20円を借りたお返しとしてはかなり高い。そして、だからこそ意味がある。
「こんなのもらえないよ。お金、返してもらったし」
先輩が予想通りの言葉を口にしてくれて嬉しくなる。この展開を待っていたのだ。
「じゃあ、その代わりに今度、先輩が私にクッキーのお礼をしてくれません?」
「……なにそれ?」
「今度の土曜日、一緒に外でお昼ご飯食べましょうよ。で、先輩が御馳走してください。そしたらその次は、お礼に私が御馳走するので!」
満面の笑みを浮かべながら、提案すると、先輩は困惑し始めた。
私がここまでガンガンくるなんて想像もしていなかったに違いない。
でも私、笑顔には自信があるもん。
ていうか、他にもいろいろ自信はある。
勉強がちょっと苦手なだけで、可愛いし、愛嬌だってあるんだから。
「……どうして?」
先輩は戸惑っているけれど、嫌がってはいない気がする。そもそも本当に人と全く関わりたくないのなら、昨日私に20円を貸してくれることもなかったはずだ。
「私、先輩と仲良くなりたいんです。だから先輩と一緒にご飯を食べたいんです。説明、足りてますか?」
なんやかんや、人間は真っ直ぐな好意に弱い、と私は思う。
好きだとか仲良くなりたいだとか、ありがとうだとか。嬉しくなるような気持ちを真っ向から伝えられると、拒むのは難しい。
それは、夏鈴先輩も同じようだった。
「……別にいいけど。でも……」
「でも?」
「私と話しても、楽しくないと思うよ」
先輩が目を伏せた。
うわ、夏鈴先輩、睫毛なっが……!
「……やっぱり、やめる?」
私を見つめる先輩の顔が少しだけ寂しそうに見えたのは、きっと気のせいじゃない。
「いえ、やめません。っていうか私、先輩が隣にいたら、それだけで楽しいと思うので!」
「……なにそれ」
「あっ、正面に座っててもきっと楽しいですよ? ねっ、だからご飯、行きましょうよ、夏鈴先輩!」
強引に先輩の手を握る。先輩は爪の形まで綺麗だった。
たぶん、先輩の身体に綺麗じゃないところなんて存在しないんだろう。
「ね、いいですよね。ね!?」
「……別に、いいけど」
「わーい、やったー! じゃあ、お店とか決めなきゃなんで、とりあえず連絡先交換しましょう。ね!?」
どうやら夏鈴先輩は、結構押しに弱いらしい。こうなったら、ぐいぐい攻めるのが一番だ。
LIMEを交換する。こんなに綺麗な顔をしているのに、先輩のアイコンは自分の写真ではなく、空の写真だった。
暗闇で輝く欠けた月。満月でもないし、なんだか微妙だ。
「じゃあ先輩、また後で連絡しますね」
「……うん、また」
「また———って、あっ、先輩」
立ち去ろうとした私が急に振り向くと、先輩はびくっと肩を震わせた。
「なに?」
「私の名前、覚えてくれました!?」
「……羽田」
「はい、羽田栞です!」
よかった、と笑いながら、あれ? と私は心の中で首を傾げた。
先輩に私の苗字、教えたっけ? さっき言ったの名前だけだった気がするんだけど、気のせいかな。
「そうだ! 授業が終わったら、自習室で先輩のこと待ってますね!」
先輩を待つ時間、小テストの勉強でもしておこう。
気分もいいし、今日はいつもより集中して勉強できる気がするから。




