第59話 こんなに簡単に
最近、私が通っている塾にすごい人が入ってきた。
一つ年上の三年生で、頭がよくて、しかもとびきりの美人。
三年生の秋という変な時期に入塾してきた先輩の名前は、天笠夏鈴。一度聞けば忘れられないような、綺麗な響きの名前を持つ人。
私はなんとなく、いつもその人を目で追ってしまう。
理由は分からない。分からないけれど、彼女がとても特別な人に見えるから。
◆
「まったく……ちゃんと予習してくるようにって言いましたよね」
20点、と書かれた小テストの答案用紙を差し出しながら、鈴木先生がいつもの小言を口にした。
眼鏡をかけた几帳面なこの先生は、たぶん私のことがあんまり好きじゃない。
「……すいません」
頭を下げながら答案用紙を受け取る。勉強はしたんです、と言おうとしたけれどやめた。結果が伴っていないのだから、言ったところできっと言い訳にしか思われない。
席に戻る途中、くすくすと笑い声が教室に響く。席に戻ると、隣の席の子が笑って話しかけてきた。
「栞、ちょっとくらい勉強してきたらいいのに」
したよ。私、ちゃんとしてきた。
でも分からなくて、上手く解けなかっただけ。
「……はは、だよねー。でもさ、ぜんっぜんやる気にならなくて」
へらへらと笑いながら応じる。ちゃんとしろよ、なんて後ろの席に座っていた男子も声をかけてきた。前に座っている女の子も。
別にみんな、私のことを嫌っているわけじゃない。むしろ、私に話しかけるきっかけを探しているだけだ。
そう理解していても、塾にくるたびに、私の心はちょっとずつすり減っている気がする。
◆
「ああもう、ぜんっぜん分かんないし……!」
イライラして、ついシャーペンを乱暴に筆箱へ投げ込んでしまった。思ったよりも大きな音がして、周囲からの視線を集めてしまう。
静かな自習室では、わずかな物音も邪魔になるのだ。
自習室を出て、自動販売機が設置してある休憩スペースに向かう。
塾、辞めたいな。
勉強しなきゃいけないのは分かってるんだけど……。
学校と違って、塾では『勉強ができるかどうか』が人間関係を構築する上でかなり重要なポイントになってくる。
成績の悪い私は、努力せず遊んでばかりいる子、というレッテルをすぐに貼られてしまった。
私が可愛いからって、そういう決めつけはやめてほしい。
でも、頑張っても頭が悪いだけなんです! なんて言いたくないし。
再び溜息を吐きながら、財布の中身を漁る。ジュースでも飲んで気分転換しようと思ったのに、全くお金が入っていなかった。
あ……! 昨日学校帰りに使っちゃって、財布にお金補充するの忘れてた……!
諦めて自動販売機の前から立ち去ろうと振り返った瞬間、天笠先輩と目が合ってしまった。
いつも通り癖一つない艶やかな髪に、上品に配置された無駄のないパーツ。いつ見ても、びっくりするほど綺麗な人だ。
てか睫毛長すぎない? 顔も小さいし、毛穴とか全然見えないし。
何回見てもこの美貌、慣れないんだけど。
天笠先輩を始めて見た時の衝撃は今でも忘れられない。こんな人、リアルにいるんだって驚いた。なんていうか、作り物みたいに綺麗な顔をしているから。
「……買わないの?」
首を傾けると、長い髪がさらりと揺れる。髪の毛の流れまで綺麗だなんて、なんだか狡い。
しかも天笠先輩、めちゃくちゃ頭もいいらしいし……。
「……そ、その、て、手持ちが足りなくて」
うわ、超恥ずかしい。
150円くらいのジュースも買えないなんて、天笠先輩に言いたくなかった。
なんでよりにもよって、こんなタイミングで初会話になっちゃったんだろう。
恥ずかしさと悲しさでいっぱいになって、なんだか泣きそうになる。
でも、いきなり泣いて変な奴だって思われたくない。
両手をぎゅっと握って、俯いて涙を堪える。
「……いくら?」
「え?」
「足りない分」
「に、20円……」
天笠先輩は頷くと、財布から10円玉を2枚取り出した。はい、と表情を変えずに差し出してくる。
意味が分からなくて、頭が混乱した。
どういうこと? 天笠先輩って、人にこんなことするの?
天笠先輩は美人で頭もいいけれど、クールで近寄りがたいという噂だった。特に男子には冷たいし、女子とも積極的に話すことはないはずだ。
「い、いいんですか?」
「別に」
「あっ、明日! 明日ちゃんと持ってくるので、絶対!」
「いいよ、それくらい」
「よくないです! それに返す時、また先輩と話せるじゃないですか!」
慌てていたせいで、うっかり口から本音がこぼれてしまった。
やばい! 私、いきなり変なこと言う奴だって思われちゃう……!
私と先輩は初対面で、こんなことを急に言われても困るはず。
せっかくのチャンスなのに、私、失敗しちゃった!
「せ、先輩、今のは、今のはえーっと、別に変な意味じゃなくて、ただこう……先輩と話したいなとか、仲良くなりたいなって思ってたから、いやだからそれもえーっと……」
口を開けば開くほど、変なことを口走りそうになってしまう。
それでもなぜかこの人に嫌われたくなくて、私は必死に言葉を探した。
「その! とにかく私、先輩ともっとお話がしたいんです!」
勢いよく叫んで、右手を差し出す。怖くてぎゅっと目を閉じたけれど、先輩は私の手を握ってくれた。
ゆっくりと目を開ける。そこには、わずかに微笑む先輩の顔があった。
「……大丈夫だから、そんなに焦らなくて」
この時思ったことを、私はたぶん、一生忘れないと思う。
———人って、こんなに簡単に恋に落ちるんだ。




