第47話 間違った取引
むき出しになった栞の背中を撫でながら、彼女にどんな言葉をかけるべきか考える。正解は、まだ見つからない。
「……夏鈴先輩」
「なに?」
「私、こんなに、こんなに先輩のことが大好きなんです。なのに先輩は、そんなにすみれって人がいいんですか」
「違うから。私はもう、すみれのことなんて好きじゃない」
紛れもない本音だ。私の初恋はもうとっくに終わっている。
しかも、この前すみれと偶然すれ違ったことで、終わっていた初恋がさらにもう一度終わった。
「……じゃあやっぱり、前は好きだったんですね」
顔を上げた栞が、涙目のまま私を睨む。
否定することができない質問に、私はゆっくりと頷いた。
私は栞のことが好き。だから、嘘はつけない。
「どこを好きになったんですか? 顔? 身体? 性格?」
「……それは」
すみれに夢中だった当時の私に聞けば、間違いなく全てだと断言されるだろう。
そもそも恋そのものが、私にとってはすみれだったのだから。
「むかつく」
独り言のように呟かれた言葉はたぶん、紛れもない栞の本心だ。
そして同じタイミングで、栞の腹が鳴った。怒っていても拗ねていても、人間腹は空くものだ。
「……お弁当、食べる?」
「先輩、マジで言ってます?」
はあ、と深い溜息を吐くと、栞は私から離れた。すると改めて栞の大胆な格好が気になってしまい、思わず凝視してしまう。
「……先輩のえっち」
そうだよ、と答えるのは不正解だろう。けれど私に効果があると判断したから栞は今の格好をしているわけで、否定するのもおかしい気がする。
「すみれって人のこういう姿も、先輩は見たんですか?」
「見てないよ。すみれとは本当に、ただの友達だったから」
「友達にしかなれなかった、ですよね?」
栞にぎろりと睨まれて、つい視線を逸らす。彼女の言っている通りだ。どう頑張っても私はすみれと友達以上になれなくて、最終的には友達ですらいられなくなってしまった。
ただ、すみれよりずっと栞のことを性的な目で見ているのは事実だ。別にこんなことを言われたって、嬉しくはないだろうから言わないけれど。
「服着ます」
不貞腐れたまま言った栞が、散らばっていたブラウスとインナーを回収する。
けれどそのまま着ることはなく、夏鈴先輩、と私の名前を呼んだ。
「私が服着たら、残念だなって思います?」
「それは……思う、かも」
「かも?」
「……思う」
私の返事を聞いて、栞は満足そうに頷いた。身体を動かすたびに、栞の豊かな胸が揺れる。目に毒と言えばいいのか、それとも目に薬と言えばいいのか。
「先輩、覚えてます? 前に白がいいって言ったこと。これ、先輩に見せるためにわざわざ買ったんですからね」
見せるため、なんて言われたら、見ない方が失礼にあたるはずだ。頭の中でそんな風に理屈をつけて、栞の胸を改めて凝視する。
白くてマシュマロみたいなのに、がっつり質量はありそうだ。いや、あった。私の手がそれを覚えている。
「ねえ、えっちな夏鈴先輩」
「……なに」
なんとも言えない呼び名にも応じると、栞は楽しそうに笑った。けれど真っ赤な目元は、先程まで彼女が泣いていたことを示している。
「私が着替えちゃう前に、写真撮りたいって思いますか?」
「……え?」
思ってもいなかった栞の台詞に混乱する。
「……なに言ってるか、分かってるの?」
たとえ露出面積が同じようなものだとしても、水着の写真とはわけが違う。そのリスクを理解できないほど、栞は馬鹿じゃないはずだ。
「詳しくは分かりませんけど、結局、すみれって人は先輩を裏切ったんでしょう? 私はそんなことしません。もし私が先輩を傷つけたら、その写真は好きにしていいです」
「……そんなこと、しない」
たとえこの先なにがあったとしても、きっと私は栞を嫌いにならない。いや、なれない。
今でもすみれのことを、大嫌いだと胸を張って言えないのと同じだ。
なにより、栞のこんな姿は私以外の誰にも見せたくない。
「信じてます。だから撮っていい、なんて言ったんですよ。それにこれは一方的なものじゃなくて取引です」
栞はそっと手を伸ばして、私の顎を持ち上げた。
「先輩、今から私にキスしてください。その瞬間を、私は写真に撮りたいので」
「……どういうこと?」
「先輩がもし誰か他の子に手を出そうとしたら、その写真を見せます。そして言うんです。私と先輩は、キスをするような関係なんですって」
栞がゆっくりと私の唇を人差し指でなぞった。リップの色が移って、栞の指先が赤く染まる。
「ねえ先輩。どうですか? この取引」
栞が私の首に両腕を回す。半開きになった唇からのぞく舌は愛らしいピンク色だった。
私と栞はただの先輩後輩で、私達はまだ付き合っていない。物事には順序というものがあって、私達は今、きっとそれから大きく逸脱しようとしている。
だけど。
私は栞を縛るための写真を手にすることができて、その上栞にキスができる。
栞に離れてほしくない。失いたくない。ずっとずっと、傍にいてほしい。
頭のどこかで警鐘が鳴っている。これは正しくないことだと。もっと正式な順序を踏むべきだと。こんなことをする前に、別の言葉を伝えるべきなのだと。
それでも、私の身体は勝手に動いてしまった。
「栞」
初めて触れた栞の唇は、涙の味がした。




