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60話 ラジムの決意

 ――ラジムは椅子に深く腰を下ろし、顔を両手で覆った。


「……どうして」


 小さく呟く。


「僕は、こんなことのために研究しているんじゃないのに……」


 机の上には、書きかけの資料といくつもの試験管が並んでいる。

 その中で、淡く白い光を帯びた液体がゆらりと揺れていた。


 ――マナ因子。


 イスフィールの人間の体内に存在する、マナに反応する因子。


 それを人工的に抽出することができた。


 ラジムの本来の目的は、非道な人体実験を行わずにマナに適応した人間を、人の手で生み出すことだった。


 だが……


「……何の検証もなしに人体に投与するなんて」


 ラジムの拳が震える。


 魔獣との融合実験。


 ギュメルが行っていた、あの忌まわしい研究。


 何人もの人間を実験台にし、その命を犠牲にして生み出したものは、人と獣が混ざり合った化け物だった。


「これ以上、犠牲者を増やしたくないのに……」

 

 ラジムは目を伏せた。


 自分が提出したマナ因子を諜報部隊が使ったということは、ゲルハルトが臨床実験を進めようと判断したということだ。


「……あの人たちも、危険かもしれない」


 クリスや、イグニス、ティナの顔が思い浮かぶ。


 ラジムは椅子から立ち上がると、部屋の入り口へと歩いていく。

 扉に手をかけようとした、ちょうどその時、扉の向こう側から静かに戸を叩く音がした。


「っ!は、はい、どなたですか?」


「私よ、開けるわよ」


 扉の向こうには、クリスとティナが並んでいた。そしてもう一人、イグニスが腕を組んだまま後ろに立っていた。


「珍しく、誰か来てたみたいだったけど」


 クリスが言う。


「何かあったの?」


 ラジムは思わず俯いてしまった。


「いえ……」


 少し沈黙してから、ゆっくりと口を開く。


「……あなた方から採取した、マナの因子が使われました」


 三人の表情が変わる。


「マナ因子が使われたって、もともと研究に使うもんだろ?」


 イグニスが眉をひそめる。


「はい、本来であれば安全性を確認した上でマナ因子を人体に移植するはずでした……ですが、何の検証もせずに因子を投与したようなんです」


 クリスの目が細くなる。


「なんでそんなことになるのよ、それじゃ……投与された人間は?」


 ラジムは答えなかった。


 だが沈黙が、その答えだった。


 ティナの顔が青くなる。


「そんな……」


「被験者は……魔獣と融合させた場合と類似した反応を見せたらしいです」


 部屋の空気が重く沈んだ。


 ラジムは三人を見た。


「僕は……教国のやり方が正しいとは思えません」


 小さな声だった。


「この研究を続ければ、無駄に命を奪うような研究を止められると思っていました」


 だけど――


「この国は、変わらない……目的のために犠牲になる人たちのことを何とも思っていないんだ」


 諜報部の人間が関わってきた以上、この研究はすでにラジムの意図する形で進めることができなくなったと判断して、まず間違いない。


「ここにいたら、あなた達も……」


 ラジムは言葉を切った。


 その先を言う必要はなかった。


 イグニスが舌打ちする。


「んなこたぁ、ここに来た時から変わんねぇだろ?」


 クリスはラジムをまっすぐ見た。


「それで?」


「……え?」


「どうするの」


 短い問いだった。


 ラジムは一瞬、言葉を失う。


 だが、ゆっくりと息を吸った。


「……逃げてください」


 三人が目を見開く。


「この施設には、スフィアの力を応用した転移装置があります」


 ラジムは机の上の地図を広げた。


「それを使えば、外へ出られます」


 イグニスが眉を上げる。


「そんなもん使って大丈夫なのか?」


「問題ありません……」


 ラジムは少し視線を落とした。

 

「ただ、転移装置を起動させるためには研究施設の長の承認が必要となります」


 地図の一点を指す。


「この通路を進んだ先に、施設長の研究室があります。僕がここに行って、施設長から転移装置の起動許可をもらいます」


 クリスの視線が鋭くなる。


「そんなに簡単に許可がもらえるものなの?」


「はい。臨床実験のために、転移装置を使うことはよくあるので……それよりも問題なのは、あなた方三人を転移装置までどうやって連れて行くかです」


 ラジムは三人を見た。


「現状、あなた方の部屋と、この研究室までの通路しか皆さんの行動は許されていませんから」


「それじゃ、どうやってこの転移装置のある所まで行くんだよ」


 イグニスが小さく溜め息を吐きながら尋ねた。


「ありきたりな方法ですが、研究員に変装して行きましょう」


 ラジムが顔を上げる。


「三人分の研究員の服の用意と、転移装置の使用許可が得られればすぐにでも実行しようと思います」


 クリスたちは顔を見合わせてから、静かに頷いた。


「わかったわ……ラジム、あなたも一緒に来てくれるのよね?」


 クリスの言葉に、ラジムは虚をつかれたように彼女を見つめる。


「僕は……」


「俺たちの脱走を手助けしたのがバレたら、お前もただじゃ済まないだろ」


「そうです。それに、無事に脱出できたとしても、この世界のことについて私たちは何もわかりませんし」


 イグニスとティナの言葉に頷くように、クリスが続ける。


「一緒に来てくれるわよね?」


「……」


 マナウルス教国の研究者として、マナに適応した人類の進化を実現させる。そのために必死で研究してきた。

 でも、その研究の裏では人身売買や人攫いのような真似までして集めた者を人体実験に使っている。

 そんな非人道的な研究をしなくても、イスフィールの人間たちの協力を得られれば教国者たちの夢を実現させられるというのに……


 ラジムの想いは、裏切られ続けていた。


「僕も……行きたい」


 復讐心や失望とは違う、強い意志が胸の奥から込み上げてくるようだった。


「ここにいたら、僕の夢は実現させることはできないから」


 ラジムは静かに頷き、迷いを振り払うように顔を上げた。

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