第九十四話 ――ここに、在り続けておったぞ
崇徳院の抗いも虚しく、鎖はさらに深く食い込み、怨気の奔流を無理やり引きずり出していく。「……済まぬ」その一言を残し、崇徳院の拳が、大地ごと割るように振り下ろされた。
「くっ……!」紡樹が両部の理で受け止めるも、衝撃に膝をつく。
「妾も、まだまだ……!」稲荷の幻惑が、一撃で吹き散らされた。
「甘く、見るなよ……!」将門が首塚の怒りを叩きつけるも、桁違いの怨気に押し負け、崩れ落ちる。
結樹が傷紋を展開して食い止めようとするが、崇徳院の一撃はその守りごと打ち砕いた。阿形が最後まで拳を振るい続けたが、やがて膝から頽れた。
「覚山殿……!」密迹が叫ぶ声も虚しく、老いた体はもう限界だった。覚山は、薙刀を杖に、静かに意識を手放した。
荒法師山に、密迹ひとりだけが、立っていた。
石目の裂紋が、腕にも頬にも、幾つも浮かんでは消える。膝は震え、拳からは血が滴っていた。それでも、密迹は、退かなかった。
「――まだだ」密迹は、拳を握り直した。「我は、まだ、ここにおる」
――《密迹さん、ひとりで踏ん張ってる……》
――《その立ち姿、なんか、仁王像そのものだ……》
無銘が、嘲るように笑った。
「無駄なあがきだ。……ひとりで、何ができる」
「ひとりでは、ない」密迹は、懐の欠片を、両手で強く握り締めた。「那羅延……我に、力を貸してくれ」
欠片が、これまでにない光を放った。それは熱でも、閃光でもなく――声だった。
「――ここに、在り続けておったぞ、密迹」
低く、懐かしい声が、確かに響いた。密迹の輪郭が、ぶれる。その背に、もうひとつの仁王の姿が、うっすらと重なった。山門の左右に立つ、対の姿――百五十年、離れ離れだったふたりが、今、ひとつになろうとしていた。
「長かったな」密迹の声が、震えた。
「ああ。……だが、お前は、独りで待ってはおらなんだ。友を、得ておったのだな」
「――行くぞ、那羅延」
「うむ」
密迹の拳に、金と朱、ふたつの光が重なって渦を巻く。踏み込む足音が、ひとつではなく、ふたつ重なって聞こえた。
「――轟け! 双王の咆哮!」
拳が、崇徳院を縛る鎖――その根元、無銘の腕に食い込んだ楔を、正確に撃ち抜いた。鎖が、音を立てて千切れ飛ぶ。
「――馬鹿な……!」無銘が、よろめいた。
支えを失った怨気が、あるべき場所へ還っていく。崇徳院は、鎖の切れた腕を、ゆっくりと見つめた。
「……解けた、か」
「あなたの恨みは」紡樹が、身を起こしながら言った。「使い潰されるためのものじゃ、ないはずです」
崇徳院は、しばらく沈黙していたが、やがて、小さく頷いた。
「……そのようだな。……いずれ、礼をしよう」
その姿が、静かに光の粒となって、空へ溶けていく。無銘は、力を失った体を引きずるようにして、瓦礫の向こうへ姿を消した。
密迹の背に重なっていた那羅延の輪郭が、ふっと薄くなる。
「――もう、行くのか」
「案ずるな。……欠片は、消えぬ。ただ、まだ、この身では、長くは在れぬだけだ」那羅延の声が、優しく笑った。「また、呼べ。……応えよう、いつでも」
「……ああ」密迹は、拳を、そっと胸に当てた。「必ず、また」
光が、懐の欠片へと吸い込まれ、静けさが戻ってきた。
――《還っちゃった……でも、また会えるんだよね……》
――《密迹さん、泣いてる……?》
荒法師山に、朝の光が差し込み始めていた。ボロボロの一行の間に、誰からともなく、安堵の息が漏れる。長かった那羅延を巡る旅に、ひとつの区切りが訪れようとしていた。




