第九十三話 切り札は、鎖に繋がれていた
密迹の拳と、無銘の継ぎ接ぎの剛力がぶつかり合うたび、荒法師山の崩れ残った柱が軋んで揺れた。将門を写した膂力、土蜘蛛を写した分身――どれも、本物の重みには届かない。
「息が、上がってきておるな」密迹が、拳を打ち鳴らした。「観念せよ」
「――まだだ」無銘の声が、僅かに揺らいだ。「まだ、終わらせるわけには、いかぬのだ」
外套の内側、覚山が最初から睨んでいた"何か"が、めきめきと音を立てて膨れ上がる。
「来おったか」覚山が、薙刀を握り直した。「……とっておきが」
無銘は、己の胸元を両手で引き裂くように開いた。中から溢れ出したのは、これまでの継ぎ接ぎとは比べものにならない、重く禍々しい紫の光――そして、幾重にも巻きついた、黒く歪んだ鎖だった。
「出でよ。……お前の力、また使わせてもらうぞ」
鎖の中から、ゆっくりと人影が立ち上がる。烏帽子を思わせる高貴な冠、朽ちかけた衣。だが双眸には、正気とは思えぬ怒りの色が渦巻いていた。
――《うわ、今度のは格が違う……》
――《鎖に繋がれてるって、どういうことだよ》
――《これ、無銘の仲間ってわけじゃないのか……?》
「……ここは、どこだ」低く、しかし芯に威厳を宿した声だった。「朕を、目覚めさせたのは、誰だ」
「崇徳院様……」将門が、思わず後ずさった。「まさか、こんな形で、お目にかかるとはのう」
「知り合いなのですか」紡樹が問うと、将門は苦い顔で頷いた。
「儂と同じ、都から見放された者よ。……保元の乱に敗れ、讃岐へ流され、都に戻ることなくこの世を去った、悲劇の上皇だわい」
「朕は、この身ひとつで、国そのものを呪うと誓った者――」崇徳院は、鎖を引きずりながら、一歩を踏み出した。「その誓いすら、他人の指図で振るわされるとは……許さぬ」
「悪いが」無銘が、鎖の端を握り締めた。「お前の恨みは、我が力よ。……暴れよ。この山の守り手ごと、呑み込んでしまえ」
崇徳院の全身から、黒く渦巻く怨気が噴き上がった。抑えられていた力が無理やり引きずり出される様は、これまでの三人衆の誰とも違う――正しく紡がれた由緒ではなく、力ずくで縫い付けられた鎖、それそのものだった。
密迹の懐で、那羅延の欠片が、ふと熱を帯びる。
「……これは」密迹が、目を見開いた。「我と同じ、気配だ。閉じ込められ、独り、待ち続けた者の気配――」
「密迹さん」紡樹が、密迹の肩に手を置いた。「あの人は、倒す相手じゃない。……たぶん、呼びかける相手だ」
「儂も、そう思うわい」将門が、拳を握った。「あのお方の恨みは、儂も、よう知っておる。……力ずくで黙らせるのは、違うだわい」
崇徳院の振り上げた腕から、黒い斬撃が放たれた。その切っ先は――崩れた本堂の奥、厨子を、まっすぐに狙っていた。
「厨子を守れ……!」覚山の声は、悲鳴に近かった。
とっさに阿形が割って入り、拳で受け止めようとする。だが、怨気を纏った一撃はその拳ごと押し込み、阿形の膝を折らせた。
「くっ……! これは、重いであります……!」
斬撃が厨子に届く、その刹那――厨子の奥から、金色の光が迸った。崩れ落ちる梁を、我が身ひとつで受け止めた、あの夜と同じ光だった。光は斬撃を正面から受け止め、空中で静かに相殺し、消えていった。
密迹が、息を呑んで立ち尽くした。
「この光は……」震える声で、厨子に歩み寄る。「那羅延……お前、まだ、そこに……」
厨子は、それきり静まり返っていた。だが確かにそこには、百五十年以上、誰かを守り続けてきた意志の残滓が、今なお息づいていた。
無銘が、忌々しげに舌打ちした。
「――目障りな残り火だ。ならば」無銘は、崇徳院の鎖を、さらに強く引いた。「厨子ではなく、そこの守り手どもを、先に潰せ」
崇徳院の瞳に、一瞬、正気の光がよぎった気がした。
「……許さぬ」崇徳院は、震える声で言った。「朕の恨みを、勝手に、使い潰すな」
――《すとくいん、耐えてる……つらそう》
――《早く助けてあげて……》
風が唸り、怨気が荒法師山の木々を薙ぎ倒す。鎖に繋がれたまま振るわれる怒りの奔流の向こうに、まだ救われていない由緒が、確かにひとつ、息をしていた。




